プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

ヤクルト・巨人・阪神で4番打者を務めた広澤克実氏。明治大学時代には日本代表としてロス五輪に出場し金メダルを獲得。ヤクルトでは池山隆寛氏と共に「イケトラコンビ」を形成し2度のリーグ優勝、1度の日本一に貢献するなど、3球団すべてでリーグ優勝を経験した。打点王2回。「トラ」の愛称で親しまれた和製スラッガーに徳光和夫が切り込んだ。

スタジオにグレーのストライプスーツで現れた広澤氏。「プロ野球レジェン堂」出演に、このスーツを選んだのには、理由があるそうで…。

広澤:
2003年に41歳で引退したんですけど、実は引退してすぐに徳光さんにお会いしまして…。

徳光:
そうでしたかね。

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広澤:
それで、徳光さんが「スーツ、君にプレゼントするよ」って言ってくれて。実はそのスーツがこれなんです。

徳光:
それ、まだ着られるわけですね。

広澤:
そうです。22年前のスーツ。

徳光:
体型も。

広澤:
この徳光さんの番組出演の話をいただいてから、これを着るために、一生懸命やせましてね(笑)。

徳光:
(笑)。

広澤:
それで、これを着てこられた。ほんとにありがとうございました。やっとお礼が言えました。あのときは、ありがとうございました。

中学時代に柔道で北関東2位

徳光:
ご出身は茨城県でしたよね。

広澤:
茨城県の下妻市っていうところで生まれたんです。筑波山の西側なんですけども、今でも人口が4万人くらいしかいない小さい町で、生まれたときには体重が4200gありました。

徳光:
大きいですね(笑)。

広澤:
これは、小さい町で有名になりましたね。

徳光:
そうでしょうね。
野球を始めたのは小学生ですか。

広澤:
そうですね。物心ついたときから王さん、長嶋さんですね。

徳光:
でも、中学では柔道をやってらしたと。

広澤:
そうです。ちょうど反抗期に入りましてね。ケンカが強いことに憧れる時代もありまして、ちょっとだけ柔道をやりました。

徳光:
そこで良い成績を収めたんでしょ。

広澤:
ええ、北関東で2位になりました。

徳光:
すごいですね。

広澤:
中学2年生のときには、「柔道の特待生」で4校くらいスカウトが来ましたね。

徳光:
へぇ。でも柔道には行かなかったんですよね。

広澤:
もう柔道はやりたくなかったんです。中学2年のときには、自分のひねくれた思いで柔道を選択したことをずーっと後悔してまして…。何で野球部に入んなかったんだろうと。

徳光:
そうですか。

広澤:
監督が来ないときに柔道場で野球をやってたくらいですから。

徳光:
そうなんですか(笑)。

広澤:
「お前、投げろ」って言って俺がパーンと打って…。

“江川”を越えて高校進学!?

広澤:
中学時代に小山市営球場っていうところに江川(卓)さんを見に行きました。当時は結城市に住んでいて、自転車で行くと20~30分で行ける距離。

徳光:
それは江川さんのプロ入り前ですよね。

広澤:
1回目の浪人のときですね。何しろお尻が大きくて…。「江川、ケツでかいな」って言いながら(笑)。江川さんの家も評判になってたんで、その家まで行って、今でいうピンポンダッシュみたいに、「江川ーっ!」って言って、ウワーッて逃げていきました(笑)。

徳光:
そうですか(笑)。
広澤さんはピッチャーもやってらしたんですよね。

広澤:
高校に入ってからピッチャーをやってました。下野新聞には「小山高校に江川2世現れる」って書かれて、「江川2世」って言われましたね。偽物のニセじゃなくて2世(にせい)って言われました(笑)。

徳光:
そのくらい球が速かったわけですね。

広澤:
はい。フォームも江川さんをまねしてましたしね。

徳光:
でも、どうして茨城県の人が栃木県の小山高校に。

広澤:
県境に川がありまして、この川が実は「江川」っていう川なんですよ。

徳光:
それ、本当ですか。

広澤:
ネタじゃないんですよ。私が住んでたところは栃木寄りの結城市なんですね。それで、その江川を渡ると小山市なんです。私が中学2年のときに春の選抜で小山高校が準優勝しまして、それを見たときに「小山高校に行って野球をやりたい」と思いましたね。越境入学ですけど。

徳光:
例えば作新学院とかそういったところからの話はなかったんですか。

広澤:
ないですね。作新は柔道でスカウトが来てました。

徳光:
野球では。

広澤:
野球では全然来ないです。野球部には入ってなかったので。ですから未経験者扱いですよね。

“夜のバッティングセンター”で抜てき

広澤:
その当時、小山高校には100人くらい新入部員がいまして、各クラスに野球部が10何人いるんですよ。私は未経験者ですから一番末端ですね。練習も声出ししかないわけですよ。

徳光:
えぇ、えぇ。

広澤:
親父がふびんに思ったと思うんですけど、「バッティングセンターに行っとけ」って。それで、いつもバッティングセンターで200球打ってから家に帰ってたんですよ。高校の練習は球拾いと声出しだけ。
それをずっと続けてたら、誰かが、「小山のバッティングセンターで高校生がすごいバッティングしてるぞ」って、当時の監督に話してくれて、監督が見に来たらしいんですね。それがあって、秋の大会で使ってくれたんです。

徳光:
甲子園には出られなかったんですよね。

広澤:
出てないです。最後の夏の大会も、県大会決勝で負けましたね。

徳光:
決勝までは行ったんですか。

広澤:
僕が入ってから優勝候補筆頭には必ず上がってたんです。でも、いっつも最後の最後に負けてしまう。

徳光:
プロからの誘いは高校時代もあったんでしょう。

広澤:
今は育成っていう枠でやりますけど、当時はドラフト外っていうのがありまして、ドラフト外では話が来てました。巨人とロッテから来ました。

徳光:
そうなんですか。その年は巨人の1位が原辰徳さんで、ロッテは愛甲猛さん。

広澤:
それで、駒田(徳広)が巨人の2位なのに、俺はドラフト外だったんです。原さんはしょうがないですね。原さん1位はかまわない。でも、駒田が2位、愛甲が1位で、俺がドラフト外っていうのはね(怒)。

徳光:
(笑)。

明大・島岡監督…敗戦に「全員切腹」

プロからの誘いを断った広澤氏は、高校卒業後、明治大学に進学する。しかし、当初は早稲田大学に進むつもりだったという。

広澤:
小山高校が準優勝したときのピッチャーが早稲田大学にいたんです。それで「早稲田のセレクションを受けろ」と。早稲田に入りたいなと思ってたんですけど、その前に明治のセレクションがありまして。セレクションってどういうものか分かんないじゃないですか。なので、早稲田に行く前に、経験を積むために…。

徳光:
でも、早稲田は受けなかったんですよね。

広澤:
受けてないです。明治のセレクションが終わったときに、「どうするんだ」って聞かれますよね。それで正直に早稲田のことを話しちゃったんですね。「分かった。でも、君が早稲田のセレクションを受けた瞬間に、明治の合格はないからな」って言われたんですよ。
そういうことを18歳の子に言いますかね。「え、どういう意味だろう」って思って、それでもう、「明治だけで」って言ったら、「分かった」って言われて。「あ、これ、明治に合格しちゃった」って思いましたね。この安易な返事がダメですね。

徳光:
そうですか(笑)。

広澤:
どんなケースでも安易な返事をしたら良いことないですよ。安易にやったらね。

広澤氏がこう語るのは、当時の明治大学野球部を率いていたのが“御大”こと島岡吉郎氏だったからだ。37年にわたって監督を務め、鉄拳制裁も辞さない厳しい指導で知られた名物監督だ。

徳光:
それで明治に行って、4年間、島岡さんと濃密な関係が生まれたわけですけど、今、振り返ってみていかがですか、

広澤:
いや、ほんとに行って良かったと思います。

徳光:
そうですか。

広澤:
だけど、もう1回行くかっていったら絶対行かないですけどね(笑)。

徳光:
18歳のときは島岡さんの存在はご存じだったんですか。

広澤:
知りません。全く知らないです。最初は「何だ、このおじいちゃん?」と思ったくらいです。
1年生の春に法政に勝てば優勝っていう試合があったんですけど、2試合目に負けましてね。寮生全員集合ですよ。僕なんかは一番後ろです。一番前が平田勝男キャプテン(現・阪神二軍監督)。それから4年生、3年生、2年生、1年生。一番後ろで正座してたら、監督が絹の長細いきれいな袋を出したんです。

徳光:
えぇ。

 

広澤:
「何を持ってきたんだろう」と思ってたんですけど、紐をほどいたら、刃渡り30センチくらいの日本刀ですよ。それをカッっと持ってですね、「これで平田以下全員、切腹しろ」って言われて…。切腹ですよ。平田さんが、「御大、明日は勝つんで命だけは助けてください」。

徳光:
(笑)。

広澤:
それから大概のことがあっても、全然動じないです(笑)。

明大野球部で起きた惨劇「Wの悲劇」

広澤氏と同じく明治大出身である高田繁氏は、「プロ野球レジェン堂」に出演した際、島岡氏の早慶に対するライバル心がものすごかったという話をしていたが。

広澤:
僕らの時代は慶応には負けなかったんですけど、早稲田には負けるんです。第2試合って大体夕方の5時くらいには終わるじゃないですか。早稲田に負けると、そこから室内練習場でダーッて練習ですよ。「バカヤロー」っていうキンキン声と、「てめー」とか言いながらパチン、パチン、パチンって叩く音。
8時過ぎくらいになって夕食を取って、9時くらいには上級生が「もう電気消せ」って言うんですよ。そうすると夜の12時くらいに「ヒーッ」って泣く声がする。

徳光:
えっ。

広澤:
監督が「ヒーッ、ヒーッ」って泣く声がするんですよ。

徳光:
島岡さんが。

広澤:
はい。そうしたら「みんな起きろ、全員起きろ」って言ってですね、夜中の1時からまた練習です。春のリーグ戦だと、大体5時くらいには明るくなってきますから、お日さまが上がってくるわけですよ。そうすると、みんなで「はい、ご来光、ご来光、ご来光…」って言って。

徳光:
(笑)。

広澤:
すると、やっぱりその日は勝つんですよね。勝っちゃうんですよ。

徳光:
くたくたじゃないんですか。

広澤:
くたくたどころか、死ぬと思いましたよ。

広澤氏の明治大学野球部在籍中には、「Wの悲劇」と呼ばれる惨劇があったという。

広澤:
下級生は必ず練習前に、バックスクリーンのメインポールに明治の旗を揚げないとダメなんです。ある日、係のやつが朝早かったから反対に揚げちゃいましてね。そしたら、「M」が「W」になっちゃうじゃないですか。もうこれ以上は言えませんけど、大変なことになりました(笑)。

徳光:
(笑)。
明治では紅白戦って言わないんですってね。

広澤:
はい。紺白戦(こんぱくせん)って言うんです。「赤」はダメなんです。ちょっとでも赤のものが入ってると、「お前は早稲田のスパイなのか」ですから。そんなところに、「W」で旗を揚げたら、どうなるか分かるじゃないですか(笑)。

「焼き芋」でレギュラー奪取!?

広澤:
下級生って必ず係があるんですよ、いろんな係があって、私は最初、冬にベンチ前でまきを割って火を付ける当番だったんです。

徳光:
焚き火ですか。

広澤:
はい、焚き火です。寒いですから。冬でも太陽があがった瞬間から紺白戦をやるんです。霜が出ちゃうんで、霜が下りる前、霜柱が立つ前に練習をするっていう監督の持論がありまして。

徳光:
ひえーっ、すごいな。

広澤:
そしたら監督から、「広澤、あそこで芋焼け」って言われまして。

徳光:
そのベンチの前の焚き火で。

広澤:
はい。「芋を焼け」って言うんですよ。さつまいもって茨城の名産で、小さい頃からそういうことをやってたんで、アルミホイルに包んで芋を焼いて、中が真っ黄色になったやつを、「監督、焼けました!」って持ってったんですね。そしたら、一口食って「うまい! 広澤、うまいぞ、毎日焼け!」って言われて、それから毎日、焼き芋の当番ですよ。

徳光:
(笑)。

広澤:
それが評価されまして、試合に出るようになったのは、そこからでしたね。

広澤氏は3年春のリーグ戦で、4試合連続本塁打を放ち首位打者にも輝く大活躍で明治大学2年ぶりの優勝に貢献。さらに秋のリーグ戦でも首位打者を獲得する。2季連続首位打者は東京六大学史上2人目の快挙だった。

【中編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/3/4より)

「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
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