プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

ヤクルト・巨人・阪神で4番打者を務めた広澤克実氏。明治大学時代には日本代表としてロス五輪に出場し金メダルを獲得。ヤクルトでは池山隆寛氏と共に「イケトラコンビ」を形成し2度のリーグ優勝、1度の日本一に貢献するなど、3球団すべてでリーグ優勝を経験した。打点王2回。「トラ」の愛称で親しまれた和製スラッガーに徳光和夫が切り込んだ。

【中編からの続き】

長嶋氏「トラちゃん、おいで」で巨人にFA移籍

ヤクルトで10年間過ごした広澤氏は1994年オフにFAで巨人に移籍。当時の巨人の監督は長嶋茂雄氏だった。

徳光:
巨人への移籍っていうのは、長嶋さんから電話があったんですか。

広澤:
そうなんです。長嶋さんからお電話をいただいて、ある料亭でお会いしました。僕は約束の時間より30~40分前に行ったんで、まだ長嶋さんはいないと思ってたんですよ。でも、長嶋さんがもう個室にいたんです。なんて言うんですか。後光ですよ。後光を生まれて初めて見たと言いますか。人生であれしか見たことないです。

徳光:
いわゆるオーラってやつですね。

広澤:
ウワーッてなって、ずーっと見てました。だから何を食べたか、何を話したか覚えてないんですよ。ずーっと見てました。

徳光:
それは、広澤さんにジャイアンツに来てほしいって話だったんですよね。

広澤:
そうです。

徳光:
相当、迷いがあったんじゃないかと思うんですが。

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広澤:
いや、迷いはなかったんですよ。その舞い上がってたときに、長嶋さんに「トラちゃん、おいで」って言われたんですよ。「おいで」って。

徳光:
そうですか。

広澤:
それで「はい」って言っちゃったんですよ。

徳光:
(笑)。

広澤:
「はい」って言っちゃったので、言ったのを取り消せなくてですね。なんで俺は「はい」って言ったんだろうなって思って(笑)。

期待に応えられなかった巨人時代

1994年オフの巨人は、広澤氏のほかにも、ヤクルトを自由契約になったハウエル氏、ミネソタ・ツインズのマック氏を獲得するなど大型補強を敢行。1995年の巨人の開幕スタメンは、3番・松井秀喜氏、4番・落合博満氏、5番・ハウエル氏、6番・広澤氏、7番・マック氏、8番・大久保博元氏とホームランバッターが並ぶ「超重量級打線」だった。

徳光:
当時、広岡(達朗)さんが、「なんだい、今年の巨人は。ゴルフでいえばキャディバックにドライバーが6本入ってるじゃないか」って言ったんですよ。

広澤:
なるほど。でも、反対に考えれば、この打線を誰か作ってみろって言っても、作れないですもんね。

徳光:
巨人に入って、ヤクルトのときとは練習方法とか全然違ったんですか。

広澤:
違いました。レギュラー組とそうじゃない組があって、レギュラー組の上にG組ってのがあったんですよ。落合さんとか原(辰徳)さんとか岡崎(郁)さんとかがいる。

徳光:
ベテランの組。

広澤:
ここに入れてくれたんですけど、宮崎キャンプで午前中に練習したら、もう終わりなんですよ。落合さんは向こうの砂浜のほうに行っちゃう、散歩してたらしいんですけど。
原さんや岡崎さんはずっとジャイアンツですから、それに慣れてるわけじゃないですか。僕はそんな待遇を受けたのが初めてだった。それでちょっと横柄になっちゃったんですね。

徳光:
横柄になるってどういうことですか。

広澤:
練習するのが、ちょっと億劫になりましたね。

徳光:
その中に入って練習することがですか。

広澤:
はい。でも、練習で打つと結構打てたので、それがダメでしたね。

 

巨人移籍1年目の広澤氏は全試合に出場し20本塁打、72打点を記録したものの、打率は2割4分0厘と期待された結果を残すことができなかった。移籍2年目の1996年には西武とのオープン戦でデッドボールを受け右手首を骨折、1180試合続いていた連続出場も途切れた。

徳光:
骨折して、それで連続試合出場が…。

広澤:
そうですね。そこで全てなんか失っちゃった感じがしましたね。復帰したのは夏くらいだったので、ちょっと打つ感覚がなくなりましたかね。

徳光:
そうですか。

広澤:
一番迷惑を掛けたのは長嶋さん、ミスターなんで、本当に申し訳ないなと思って。あんなに期待していただいたのに、申し訳ない気持ちでいっぱいですね。僕がFAしたことに非常に気を遣っていただいて、いつも「大丈夫か?」「慣れたか?」って声を掛けてくれてました。

移籍3年目の広澤氏は126試合に出場し、打率2割8分0厘、22本塁打、67打点と安定した成績を残す。しかし、レギュラーとして活躍したのは、この年が最後となった。

再び野村監督の下へ「自由契約で来い」

徳光:
それから、今度は阪神に移られるわけですけど、これはどういう流れだったんですか。

 

広澤:
巨人に入って5年目に、スライディングで右肩を骨折しちゃったんです。それで、ボールが投げられなくなったんです。もうダメだなと思ってたら、シーズン終盤に野村さんから電話をいただきまして、「もしジャイアンツを自由契約になるなら、阪神に来ないか」って。

徳光:
そうか、野村さんは当時、阪神ですもんね。

広澤:
阪神の監督なんですよ。ただ、「トレードとか金銭になると阪神はケチだから出さない」。(笑)

徳光:
なるほど(笑)。

広澤:
「自由契約なら何にも障害がないから来いよ」っていう話をいただいたんです。本当は迷ったんです。肩も治ってないし、また重荷になると嫌だなと思って。でも、そう言ってくれてるんだからと思って、当時の代表に「自由契約にしていただけますか」って聞いたら「ああ、いいよ」って。

徳光:
(笑)。

広澤:
もう二つ返事。

徳光:
ところが、いざ阪神のユニフォームを着たら、昔から阪神の選手だったんじゃないかと思うくらいよく似合ってましたよね。

広澤:
いや、違います。
契約に行ったとき、最初は背番号が48番だったんですよ。48が空いてて、「48番でね」って言われたんです。そしたら、はんこを押す直前に「実は広澤君ね、31番も空いてるんだ」って言うんですよ。「いやいや、勘弁してください」って断ったんですよ。でも、「31はどうしても掛布のイメージが強いので、君でそれを少しぼやかしてくれないか」って。

徳光:
そんな話があったんですか(笑)。

広澤:
それでも僕はお断わりしたんですよ。「僕が31番を使って阪神ファンの人が怒んないんですか」って聞いたんです。そしたら、「全然怒んないよ、そんなの大丈夫だから」って言われて31番をつけたら、とんでもなく怒られました。

徳光:
(笑)。

星野監督がくれた花道 現役最終打席でHR

広澤氏は阪神で5年間を過ごし、主に代打や一塁手として活躍した。現役最終打席となった2003年10月27日のダイエーとの日本シリーズでは、9回に代打で出場しホームラン。自らの引退に花を添えた。

徳光:
ご自分の中で阪神時代を日記に書くとすると、どんな感じですかね。

広澤:
「雨のち晴れ」みたいなもんですね。

徳光:
じゃあ、晴れのままで引退できたってことですか。

広澤:
最後の試合、ホームランですから。

徳光:
でしたよね。仙ちゃん(星野仙一氏)が粋な計らいをしてくれましたね。

広澤:
そうですね。大先輩の星野さんとも一緒に野球をやれましたし。もちろん、野村さんのおかげなんですけど。
ただ、野村さんの奥さんが事件を起こしちゃいまして…。

徳光:
ありましたね。

広澤:
急きょ、2002年の監督が星野さんに決まるんですね。12月のことだったと思うんですよ。
年明け7日くらいに、見たこともない番号から電話がかかってきて、末尾番号が「7777」です。すぐ星野さんだって分かりましたよ。「あーっ」ってなって(笑)。
「新年、明けましておめでとうございます」って出たら、「『明けましておめでとう』じゃないんだ」って怒っちゃってるんですよ。「井川(慶)と一緒にいるだろ。あれは俺の生命線だ。あいつをちゃんと育てろ!」って、ガチャンって切られました。

徳光:
(笑)。

広澤:
井川と一緒に自主トレしてたんですけど、当時は10勝するけど10敗しちゃうピッチャー。勝ったり負けたりで、体力はあるけどボーっとしてるやつ。「お前が生命線だって言ってるぞ」って言ったら、「はあ?」みたいな感じで。
でも、のちのち、その井川が20勝するんですよね。だから、星野さんは、そういう目でずっと見てて、井川がすごいピッチャーになるって分かってたんですね。

徳光:
星野さんとは明治の先輩後輩ということで、もともと交流が…。

広澤:
まあ、そうですね。でも、それから大変でしたよ。
島岡吉郎さんは、大体身長165cm、体重110㎏で、ずんぐりむっくりじゃないですか。星野さんは姿格好は違うんですけども、何かそっくりでしたね。雰囲気とか仕草がそっくり。だって仲人が島岡さんですから。

徳光:
あぁ、なるほど。

広澤:
星野さんは気ぃ遣いなので、みんなには気を遣うんですけど、私には気を遣わないんですよ、後輩だから(笑)。
主力選手の奥さんの誕生日を覚えててね、誕生日の日にはパーンとバラの花を送るわけですよ。「誕生日おめでとう」って。感激しますよね。

徳光:
そういうようなところもあって、現役最後の打席のホームランになるわけですね。

広澤:
これはもう星野さんが打たせてくれたホームラン。自分で打った感覚はないです。代打で出ていったんですけど、矢野(燿大)の代打なんですよ。

徳光:
矢野さんの代打ですか。

広澤:
矢野に代打なんか出す必要がないわけですよ、打つキャッチャーだし。でも、出していただきましたね。

いろんな球団に行って良かった

徳光:
3球団で野球人生を送ったことで、何かお感じになることありますか。

広澤:
ジャイアンツに行ったときは、正直、なんか失敗したんじゃないか、人生を誤った、道を誤ったんじゃないかなって思ったこともありました。
でも、年が経つにつれて、いろんなところに行って良かったなと。もし移籍してなかったら、「俺、ジャイアンツに、ミスターに誘われたのに一体どうしたんだろう」って、ずっと後悔してたと思うんですよね。死ぬ間際になって何かを後悔するとしたら、やってしまった後悔のほうがいいんじゃないかなと思ってるんですよ。やってしまった後悔はいまだに少し残ってますよ。でも、人生を考えたとき、どっちが良かったんだろうって思うと、今のほうがいいんじゃないかなと思ってます。

徳光:
なるほどね。
唐突で恐縮なんですが、監督の話はなかったんですか。

広澤:
ないですね。

徳光:
ずっとヤクルトにいれば、当然、監督の話もあったと思いますけど。

広澤:
まあ、古田敦也の前、狙ってましたね(笑)。
こんな話をしていいかどうか分からないですけど、星野さんが亡くなった日の前の夜に、久しぶりに星野さんの夢を見たんですよ。星野さんが「俺はお前に監督をさせたかったんだ」って言う夢。なんでこんな夢を見たのかなって思いながらテレビをつけたら、「星野仙一さん死去」って出たんですね。
実は、星野さんの楽天監督時代に、「楽天に来い」って呼ばれたんですよ。でも、僕はいろいろやりたいこともあったし、いろんなことを考えて、「すみません、監督。今回、本当にうれしい話をいただいたんですけども、お断りさせていただきます」と言ったら、ガチャンと電話切られました。その3秒か5秒後くらいにまたかかってきて、「はい、もしもし」って言って出たら、「いいか、お前、俺に会ってもな、今後あいさつするな。お前の顔なんか見たくないんだ」って切られたんですよ(笑)。そういうことがあったので、そういう夢も見たのかなと思ってるんですけどね。

徳光:
そうなんですかね。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/3/4より)

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