2024年9月に奥能登を襲った豪雨から半年。今回紹介するのは珠洲市真浦町にある一軒の宿だ。地震後も営業を続けていた最中、豪雨に見舞われ夫を亡くした女性の思いに耳を傾ける。
豪雨が残した深い爪痕
「ここまで水が来ていた。全部埋まっていたんです」珠洲市・真浦町にある「ホテル海楽荘」の女将、池田真里子さんだ。

宿泊客の疲れを癒した大浴場も、にぎやかな声や御陣乗太鼓の音が響いた宴会場も。奥能登豪雨は宿に目を覆いたくなるような爪痕を残した。この豪雨で亡くなった人は奥能登で16人。その1人が池田真里子さんの夫、幸雄さんだ。

「こっちからの水と廊下からの水と両方来たので私とお父さんはここにいたんですよ。まさかそんな後ろから水が来るとは思わないから、ここに2人ですごいなって見ていたところで流されて。そこの柵のところになんとか引っかかって助かったんやけど、お父さんは松の木の間のところにおったんですよ。お父さんって呼んだらそこで手をあげた。もうちょっとで捕まえるところにまた後ろから大きい水が来てそのまま流れていった。2人ともそのまま死んでいたかもしれないから、『後始末せえよ』っていうので私だけ置いていったのかもしれん」

豪雨が発生した当日、第九管区海上保安本部が上空から真浦町の様子を撮影した映像を見ると、宿の横を流れる川は氾濫し、大量の土砂や流木が押し寄せていたことがわかる。幸雄さんは豪雨の4日後、近くの岩場で遺体で発見された。
50年の歴史と温かい思い出
「拾ってきても中身がどろどろになっていて」宿泊客から届いた手紙を開くと宿で撮影された写真が何枚も入っていた。「料理の写真や。(幸雄さんが)広間でブリ捌いとる。切りたてを食べてもらおうと思って宴会場で捌くんですけど、みんなおかわりしてお客さんも食べてくれたし、お父さんもよく切っていた」

50年の歴史を持つ「ホテル海楽荘」の魅力は能登の自然と食材、そして幸雄さんの人柄だ。宿には、素朴で温かな時間が流れていた。2023年に宿を取材した際、幸雄さんは「珠洲は自分の第二のふるさとだと思うような、そういうもてなしをして、お客さんにご利用していただきたいなと思っています」と話していた。

幸雄さんと真里子さんは地震の後も、復旧工事にあたる作業員などを受け入れてきた。「(幸雄さんは)仕事好き、人が好き。喜ばすのが好き。話をするのもね、大好きやし。『話しとらんと仕事せんかいね』ってこっちが言うほどやけどね。私としゃべってたら『漫才しとんがかいや』って言われる」
宿を再建するかどうか
豪雨の被害を免れた2階の客室。幸雄さんの遺骨は窓のそばに置かれている。「海見てねって言ってね。海が好きな人やさかいに海見てかってここにおってねって。いまもおらんって言っても、どっか出張に行っとるんかなって思うような『ただいまー』って戻ってくるかなと思いながらおるけど。ちょっとでもみんなのために仮設住宅できればいいしと思って、せっせと仕事したあげくに亡くなるんやったら、地震から仕事せにゃよかったと思いながらおるわね」

豪雨から半年が経とうとする今も、宿ではボランティアによる泥出しが進められている。ボランティアの女性が「だいたい泥は取り終わって、配膳室とかトイレはまだなんですけど」と声をかけると、真里子さんは「いいわいね、あそこ。けっこう来て手伝いしてくれとっしと思ってあれやしな」と遠慮がちに話した。女性は「いやいや、ずっとやりますよ」と寄り添ってくれた。

地震の後、本格的な宿の再開に向け動き出した矢先に見舞われた豪雨。ボランティアに支えられながらも、真里子さんは宿を再建するかどうか決断できずにいる。「さすがにこの状態で直すって言ったら、どんだけの金かかるかと思えばね。どうしようかなと思っている最中です。(幸雄さんに)上からなんか声かけてほしいけど、声も聞こえんしね。声聞かれればなんか聞いてくれればいいけどなと思うけどね。どうなるかわからん今の状態じゃ。ちょっこしでも動いてかなね。あとどんだけ頑張られるかわからんけど、お父さんが置いて行った命やさかいね」
(石川テレビ)