去年9月、能登半島を襲った豪雨災害から1年。能登半島地震の被災地をさらに襲った奥能登豪雨は、尊い命を奪った。そこには家族を失った悲しみと、それでも前を向いて生きる人々の姿がある。石川テレビでは、犠牲となった3人の遺族を取材し、それぞれの「今」を見つめた。
娘の思いを受け継いで ―喜三鷹也さん
「もう1年、でもまだ1年。早いのか遅いのかちょっと自分にはよく分からないんですけど」

輪島市の喜三鷹也さん。
「ご飯食べていても、どこか寂しいしいつもご飯美味しい美味しいって食べていたので、そういう時は物足りないというか寂しいですかね。娘が近くにおると思って過ごしてきましたけど、1年経ってもね、まぁ会えないですしね深みが増している気がしますねやっぱりもう本当にいないんだっていう。」

去年の豪雨で輪島市の塚田川が氾濫し、久手川町では住宅4棟が流された。学校が休みだったため、一人で家にいた当時中学3年生の娘・翼音さんは、父からの避難の電話を最後に音信不通となった。
喜三さんは当時、次のように話していた。
「娘は寝ていたし、状況に全然気がついていなくて。外を見たら海みたいになっているって。3階に逃げてくれと言ったんですけど、扉が本当に開かないと言っていました。10時頃に音信不通になって、つながらなかったんで。その頃には家もしかしたら流れていたんかな。」

翼音さんは豪雨から9日後、福井沖で発見された。

「見つかってくれて良かったです。僕の言うことはあまり聞かなかったですけど、最後に僕が電話で『長袖長ズボンを着てくれ』って言ったのを守ってくれていたみたいで、長袖と長ズボンを着ていました。僕の言うことを聞いてくれたんだと思いました」

翼音さんは生前、輪島塗職人の祖父・誠志さんの店をよく手伝っていた。今も全国各地で出店を続ける出張輪島朝市。店先には翼音さんが好きだったフクロウのカップや、鷹也さんが漆を塗った箸も並べられている。

「父にちょっと教えてもらって。半年以上はお店に出すまでは時間がかかっているんですけど、新しいパール漆というちょっとラメみたいな感じになって、きれいかなっていう、これなら店に出せるんじゃないかっていう風に言ってもらえたので」

以前は輪島塗に携わった経験がなかった喜三さん。今は、娘の思いを継ぐように漆塗りに取り組んでいる。

「娘がじいちゃん・ばあちゃんを助けようと思ってお店の手伝いをしていた。翼音が助けていたように、僕もこうやって手伝ったら、娘も喜んでくれるんじゃないかと思うんですけど。今は目の前にあることをしっかりこなして、少しでも助けていけたらなと。そういう思いで一つ一つこなしていこうかなという思いでいます」
ラジオで伝えたい姉への思い ―中山真さん
今年7月に開局した臨時災害放送局「まちのラジオ」でパーソナリティーを務める輪島市町野町の中山真さん。

「お聞きの放送は臨時災害放送局まちのラジオです。輪島市では土砂災害警戒情報の発令に伴い避難指示が発令されました」
中山さんはマイクを通して地域の情報を伝える毎日を送っている。

「ラジオにいるメンバーの人たちが心配してくれるからだと思います。気にかけてくれているからですね。そこがあるから、僕は続けられているんだと思います」
去年9月21日、中山さんの姉・美紀さんは仕事へ出かけたまま行方が分からなくなった。中山さんは連日、姉の車が見つかった場所の周辺を探し続けたが、約1カ月後、遺体で発見された。

あれから1年。中山さんは今も町野町の仮設住宅で生活している。
「ラジオが開局してから1日が早く感じますね。去年のあの時はすごい大変やったなって。仕事が終わって寝るときでしょうかね、やっぱり思い出すことがありますね。ちょっとフラッシュバックしちゃう時もあります」

中山さん家族は今月5日に美紀さんの1周忌の法要を終えた。

父の勇人さんは「あ、一区切りついたのかなって感じやね。ただまだね、もう1年経ったの、え、まだ1年なのっていう感じなんやってね、今も」と話す。

母の親子さんは「いろんな人から、真くんだんだん喋るのも上手になってきているし、嬉しいとか楽しいとか手を挙げてやったんさかい、自分からやりたいと言って。何あっても頑張らんなんねって、くじけんとって」と中山さんを励ます。

豪雨から1年を迎えるにあたり、中山さんが準備を進めていることがある。

「豪雨から1年っていうのを僕だけの自分語りで、その番組を作りたいなっていう風に思っているんですよ。聞いてくれる人が必ずいるからだと思います。豪雨の話聞いてくれると思うからですね」

珠洲で50年、夫婦で支えた老舗の宿 ―池田真里子さん
珠洲市真浦町にある「ホテル海楽荘」。

能登半島地震の後も復旧工事にあたる作業員を宿で受け入れていた池田真里子さんと夫・幸雄さん。そんな二人を奥能登豪雨が襲った。

今年3月、池田さんは当時の状況を語ってくれた。
「こっちからの水と廊下からの水と両方来たので、私とお父さんはここにいたんですよ。まさかそんな後ろから水が来るとは思わないから、ここに2人ですごいなって見ていたところで流されて」

池田さんは柵に引っかかって助かったが、夫の幸雄さんは松の木の間にいるのが見えた。
「お父さんって呼んだらそこで手をあげた。もうちょっとで捕まえるところに、また後ろから大きい水が来て、そのまま流れていった。2人ともそのまま死んでいたかもしれないから、後始末せえよっていうので私だけ置いていったのかもしれん」

あれから6カ月。今年4月に宿でアスベストが確認され、ボランティアが手伝えなくなった。現在は、公費解体を待っている状態だ。池田さんは仮設住宅を往復しながら、片付けを続けている。

「ドロドロ…この間の雨でまた1階に水が入ったから中まで。そこら中だしどうしようと思いながら仕事しとるし。1人で手に余るし、かといって誰も頼めないし」

「車で1時間ほどかけては往復している。しゃべる相手がいないから、お父さんにしゃべっては、一緒にしゃべっては走ってきていますけど、返事は来てません」

老後を楽しもうとしていた矢先の出来事に、池田さんの思いは複雑だ。
「病気とかだったらあきらめもつくけども、急にぱつっといなくなったら。これから老後を楽しもうかなと思っていた頃だった。楽しむどころか苦しみになった」

奥能登豪雨から1年。娘の思いを受け継ぐ父親、ラジオを通して姉への思いを伝えようとする弟、50年支えた宿を片付け続ける妻。大切な人を失った悲しみと向き合いながらも、一歩ずつ前に進もうとしている。

(石川テレビ)