昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

西武・ダイエー(現・ソフトバンク)・巨人・横浜(現・DeNA)の4球団を渡り歩き通算224の勝ち星を積み重ねた工藤公康氏。MVP2回、最優秀防御率4回、最高勝率4回などなど数多くのタイトルを獲得。プロ野球最長記録となる実働29年の間に14回のリーグ優勝・11回の日本一に輝いた“優勝請負人”に徳光和夫が切り込んだ。

朝4時に走らされる…父親のスパルタ教育

徳光:
工藤さんの野球の出発点からお話を伺わせていただきたいと思うんですが、実は始めたときは、やりたかったわけではなかったそうですね。

工藤:
すいません。野球ファンの方やお子さんが見てたら、ちょっと申し訳ないんですけど、僕はほんと、『巨人の星』の星飛雄馬と、ほぼおんなじような育てられ方をしたので…。

徳光:
お父さんが野球好きだったんですか。

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工藤:
ジャイアンツのファンです。ジャイアンツが負けると「テレビ切れ」。

徳光:
工藤さんは名古屋ですよね。名古屋の中ではちょっと異端児では。

工藤:
異端児でもないですね。名古屋でもドラゴンズファンとジャイアンツファン、どっちかって言うと、昔はジャイアンツのほうが多かったんじゃないかなと思うくらい、多かったですよ。

徳光:
そうですか。

工藤:
はい。父親は草野球のキャッチャーをやってたので、休みになると、「おい、キャッチボール行くぞ」って連れていかれて、僕らに「投げてこい」って言って、自分はキャッチャーの練習をするんですよ。でも、ストライクの球しか捕らないんです。「キャッチャーの練習するんだったら、全部取れよ」と思うんですけど、ストライクしか捕らない(笑)。

徳光:
それで、転がっていったボールは工藤さんたちが取りに行くわけですか。

工藤:
そうですよ。上のほうに行ったら子供が取りに行くんですよ。横に行ってもそうです。

徳光:
そういうスパルタの中で、工藤さんご自身も「野球がうまくならなければいけないな」と思ったわけでしょ。

工藤:
最初は思ってないんですよ。でも、「外でバットスイングしてこい」とか、朝4時頃に起こされて走らされたりとか、そんなのばっかりだったんで、「どうせやらなきゃいけないんだったら早くうまくなろう」っていう思考になった。
「週刊ベースボール」の後ろのほうに、プロの人のピッチングフォームやバッティングフォームの分解写真があるじゃないですか。お金がなくて買えないので、本屋さんでひたすら立ち読みして覚えて、シャドーピッチングで腕の使い方とか下半身の使い方とかをまねしてたっていうのが子供の頃です。

徳光:
そんな小学生、初めて聞いたね。

中学時代にトレード移籍!?

徳光:
それで、工藤さんは中学では野球部に入ったわけですか。

工藤:
入ってないです。

徳光:
えっ、入ってないんですか。

工藤:
僕、小学校のとき、野球部を1回やめてるんですよ。中学で最初に始めたのはハンドボールです。

徳光:
そうなんですか。

工藤:
僕はハンドボールをやってて、「よし、このハンドボールで」みたいに考えてたんですけど、たまたまハンドボール部と野球部の顧問の先生が同じだったんです。ある日、職員室に呼ばれて、「お前は何で野球やらないんだ」って。隣に1人いて、その子は野球部だったんだけど、「ハンドボール部に代わりたい」と。それで先生に「お前ら、ちょうどいいからトレードだ。お前は明日から野球やれ、お前は明日からハンドボールやれ」って言われたんです。

徳光:
ええっ。ハンドボール部から野球部へ。

工藤:
はい。ハンドボール部から野球部にトレードです。

徳光:
へえ。

中学時代に見た!槙原寛己氏の「豪球暴投」

工藤氏と同学年で愛知県出身のプロ野球選手に、ジャイアンツで活躍し平成唯一の完全試合を達成した“ミスター・パーフェクト”こと槙原寛己氏がいる。工藤氏は槙原氏のことを中学時代から知っていたという。

工藤:
たまたま彼が行ってた中学校と練習試合をやってて、むちゃくちゃ試合が止まるんですよ。ブルペンで投げてる子が暴投して、ボールがホームのほうまで転がってくる。そのたびにアンパイアがタイムをかけてボールを投げ返す。1~2球投げると、またボールが飛んできて、また「タイム」。そこで投げてたのが槙原君。球は速いんですけど、しこたまコントロールが悪かった。

徳光:
そうなんですか(笑)。

工藤:
いつも暴投を投げてた(笑)。でも、「球がすごく速いね。誰だろう」みたいな話になりましたよ。むちゃくちゃ速かったですよ。

徳光:
工藤さんは、中学ですでにピッチャーをやってらしたんですか。

工藤:
やってました。

徳光:
カーブはいつくらいに教わったんですか。

工藤:
実は僕はカーブは教わってないんですよ。
メンコとかコマとかビー玉とかっていうのが、僕らが子供のときの遊びだったんですね。コマって親指と中指、人さし指で持って、スピンをきかせてブーンって投げるじゃないですか。小さい頃は、いわゆる喧嘩ゴマで、勝ったほうがコマをもらえたりとかっていうのがあったんですけど、うちはお金がなくてあんまりコマを買えないんで、作ったコマとかで勝ってたんです。その地区で負けなしくらい、うちの兄弟も含めてみんな強かった。そのコマの握り方と、カーブの投げ方がほぼ一緒だった。

徳光:
ええっ、そうですか。原点はコマですか。

工藤:
コマです。

徳光:
へえ。

中卒で働くはずが…人生を変えた出会い

徳光:
名古屋には相当、野球の名門高校があるじゃないですか。東邦とか享栄とか中京(現・中京大中京)とかね。そんななかで工藤さんがお進みになったのは名古屋電気高校(現・愛工大名電)。

工藤:
進んだんですけど、僕はほんとは高校には行けなかったので…。

徳光:
えっ、どういうことですか。

工藤:
中学卒業したら丁稚奉公に行く予定だったんですよ。

徳光:
何の丁稚奉公に。

工藤:
料亭の裏でタマネギをむいたりとか大根や芋を洗ったりとか、そういうドラマでよく見るようなのを僕はイメージしてたんですよ。

徳光:
でもそれで、どうして名電高なんですか。

工藤:
僕が中学3年のときの新学期の春に、学校の事務の方が変わられて、新しい方が来られたんですね。その方がちょうど高校のコーチや監督さんと同期くらいの人で、一緒に社会人までやったことがある方だったんです。

徳光:
ええ、ええ。

工藤:
僕がピッチングしてたら、いきなり「いい球投げるね」って話しかけられて、「そうっすか」みたいな感じだったんですけど、「高校はどこか決まってんの」みたいな話をされて、「決まってません。実は高校には行けないんですよ」っていう話をしたら、「特待という制度がある。お金はそんなにかかんないんだけど、それでも行く気ない?」って教えてくれた。父親に聞いたら、「そっか、金かかんないんだったら行っていいぞ」って言ってくれて、それで、その人に紹介していただいたのが名電だったんですよ。

徳光:
そうですか。その人の出現がなかったら、工藤さんのプロ野球人生もなかったんだ。

工藤:
ないですね。

徳光:
縁ですね。

ノーコン克服「10メートルから投げろ」

徳光:
名電高という名門の中で1年生から主力選手として活躍された。

工藤:
1年の秋から多少投げだしたんですけど、やっぱり打たれる。フォアボールが多かったんですよ、僕。

徳光:
そうですか。

工藤:
コントロールが悪くて。それで、ある人に相談したら、その人から「18メートルでコントロールできないんだったら、前に行け」って言われたんです。「お前はどのくらいだったら、ある程度キャッチャーの構えているところに投げられるんだ」っていうことで、やってみたら10メートルだったんですよ。10メートルだったら、大体構えてるところにいった。
「じゃあ、10球連続いくまで絶対下がるなよ」って言われて、それから毎日500~600球、10球連続で構えてるところにいったら1歩下がる。また10球連続でいったら、もう1歩下がる。

徳光:
へぇ。

工藤:
それを2年の秋からずっとやって半年くらい、やっと春ごろに18メートルに下がっても、ある程度構えてるところに…。

徳光:
3年生の春。

工藤:
そうです。春までかかってやっと投げられるようになって、コントロールが良くなったんですよ。

徳光:
へぇ。

右目に死球も「工藤投げろ」で完封

3年生夏の愛知大会5回戦の東邦高戦で、打席に立った工藤氏は右目付近にデッドボールを受けて流血。治療のために試合が20分以上中断する事態となったが、工藤氏はそのまま続投し、東邦打線を散発4安打に抑えて完封勝ちした。

工藤:
結果的には完封したんですけど、ボールが当たって自分でも頭が真っ白になって、フッて我に返ったときには医務室かなんかにいたんですよ。お医者さんと監督さんが話をしていて、お医者さんは「下手したら失明するかもしれないから、すぐ病院に行ったほうがいい」って言ってて、監督さんは「いや、このまま投げさせる。全ての責任は俺が取る」って。
監督さんに「工藤、お前が投げろ」って言われたときに、僕は、「はい」って答えたんですよね。右目が腫れて見えないので、アンパイアの人にハンカチを持つことを許可していただいた。昔はポケットに何も入れちゃいけなかったんですよ。

徳光:
そうなんですか。

工藤:
はい。なので、僕は初めてハンカチをポケットに入れさせてもらって、左目だけだとサインが見えないので、右目にハンカチをあててベロッてめくって、ピントを合わせてサインを見て、うなずいて、ハンカチをポケットに入れて投げてた。

徳光:
そうですか。その延長戦上で甲子園に結び付くわけですか。

工藤:
はい。

徳光:
監督としては、「このチャンスを逃したら甲子園に行けない」、つまり「工藤以外では甲子園は考えられない」みたいな判断もあったんでしょうね。

工藤:
中村(豪)監督は、僕らが入る前の年に新任の監督さんとして入ったんですけど、いろんなところを回って、選手をちゃんと選んで、「よし、自分がこいつらを育てて甲子園に行こう」っていう最初の年代だったんですよ、僕らは。だから、思い入れもすごく強かったんですね。

徳光:
強かったでしょうね。

工藤:
はい。

甲子園でノーヒットノーラン

名古屋電気は1981年の愛知大会を制し夏の甲子園に出場。2回戦から登場すると初戦の長崎西との試合で、工藤氏は、1974年に金属バットが導入されてから初めてとなるノーヒットノーランを達成する。続く3回戦では北陽(現・関大北陽/大阪)を相手に延長12回を投げ切り21奪三振でサヨナラ勝利。準々決勝は志度商(現・志度高/香川)に完封勝ち。準決勝で金村義明氏を擁した報徳学園(兵庫)に敗れるまで勝ち進み、名古屋電気はベスト4進出をはたした。

徳光:
16奪三振でノーヒットノーラン、すごかったですよね。

工藤:
勝つとか負けるとかっていうのは…。前の日は「1つくらい勝ちたいね」ってみんなで話をしてたんですけど…。

徳光:
それがどんどんどんどん勝ち進んだ。工藤さんのカーブはすごかったね。

工藤:
そうっすか。

徳光:
いや、だって、もうバッタ、バッタじゃないですか。自分でも面白かったでしょう。

工藤:
カーブで外野を越えるような打球を打たれたことが、そんなになかったので、「カーブを投げとけば凡打かヒット」みたいな感じに思ってたところはあったと思いますね。

【中編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/12/3より)

「プロ野球レジェン堂」
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