昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!
西武・ダイエー(現・ソフトバンク)・巨人・横浜(現・DeNA)の4球団を渡り歩き通算224の勝ち星を積み重ねた工藤公康氏。MVP2回、最優秀防御率4回、最高勝率4回などなど数多くのタイトルを獲得。プロ野球最長記録となる実働29年の間に14回のリーグ優勝・11回の日本一に輝いた“優勝請負人”に徳光和夫が切り込んだ。
【中編からの続き】
夜の六本木通い「このままだと死ぬ」

1987年は大車輪の活躍を見せた工藤氏だったが、その後、成績が伸び悩む。1988年は10勝10敗とかろうじて2桁勝利を達成したものの、89年は4勝8敗、90年は9勝2敗と2桁に手が届かなかった。
徳光:
その後しばらく勝ち星が伸びてないんですけど、六本木通いがたたったとか、そんなことはありますかね。
工藤:
六本木だけじゃないですけどね。遊びを覚えちゃってダメでしたね。疲れやすくなるし。
徳光:
やっぱりそうなんだ。
工藤:
睡眠不足とか偏った食事とかお酒とかね。昔は飲んでも、しばらくすると冷めて、そこからいくらでも飲めたんですよ。だから、肝臓を壊したんですけどね。
徳光:
ああ、そうですか。

工藤:
健康診断に行ったときに、お医者さんに「死ぬよ」って言われましたもんね。
徳光:
その若さで。だって、まだ26~27でしょう。
妻のサポートで大復活
そんな工藤氏の不摂生な私生活が変わったきっかけは結婚だったという。

工藤:
その頃って、まだ携帯電話で連絡を取るっていうのはなかったんですよね。だから、自宅に電話がかかってくる。電話がかかってくると「はい、もしもし工藤ですけど」って嫁が出て、「公康いる?」みたいな感じで言われると、「すみません。いません。何かお伝えしますか」。それで相手が「いや、いんだよ」ってガチャッと切る。
しばらくするとまた電話がかかってくる。僕はいるんですよ。でも、「工藤います?」。「はい、いません」。相手は「そうなんだ」って、またガチャッと切る。かかってきたやつ全部に「いないんです」って。「飲みに誘おうと思って」「行かないんですよ」。そのうち同じ人からずっとかかってくると、「間違い電話です」って切ってたらしいんで(笑)。
徳光:
素晴らしい。このまま行ったら衰えちゃうんじゃないかっていうことを、奥さんなりに察知したわけですね。
工藤:
ていうより、結婚するときに2人で話したんですよ。「このままいったら成績が落ちて、来年ひょっとしたら辞めるかもしれない、首になるかもしれない」っていう話もしてたんですよ。
徳光:
はい。

工藤:
「それでもついてくる? 一緒にいてくれる?」って聞いたら、うちの嫁は「別に野球選手と結婚するわけじゃないから、いいわよ」って。
それで結婚して、最初に言ったのが「どうせだったら、やるだけのことをやってみようよ。私は食事、あなたはトレーニング」。うちの嫁は、食事のために色んな雑誌を買ってきて切ってファイルして、そこに1軒1軒電話して、「すいません。会っていただけませんか」って、その現地まで行くんですよ。「よし」と思ったら契約して帰ってくる。
徳光:
へぇ。
工藤:
だったらしいです。「定期的に野菜が来るな、いろんな物が届くな」とは思ってたんですけど…。そうやって、とにかく行って確かめる。
徳光:
奥さんのそういったサポートに気が付いて、工藤さんもやっぱり自分自身を立て直さなければいけないっていうんで、筑波大の白木仁先生のところに行くわけですね。
工藤:
まだ日本に「体幹」っていうトレーニングが入る前から、体幹トレーニングをやったりとかですね。

1991年に工藤氏の成績は急回復し、16勝3敗で最高勝率のタイトルを獲得。92年は11勝5敗。93年には15勝3敗で最優秀防御率(2.06)、最高勝率、MVPの三冠に輝いた。
徳光:
食生活の改善、体幹トレーニングの導入が、数々のタイトル獲得に結び付いてるわけですかね。
工藤:
はい。結び付いている。
徳光:
なるほどね。かみさんがいなかったら、今の工藤公康はないね。
工藤:
ないっすよ。何にもないですね、多分。
詰まったはずがホームラン・落合博満氏
徳光:
パ・リーグは強打者も多かったですよね。例えば、落合さんとも対戦してますよね。
工藤:
はい。ボコボコに打たれてます。
徳光:
打たれてますか。

工藤:
はい。落合さんって、吸い込まれるイメージなんです。落合さんがゆったり構えてるところにインサイドのボールを投げて、自分でも「よっしゃ、キャッチャーの構えてるとこに決まった」と思う。でも、キャッチャーがミットを閉じようとした瞬間にバットがビュって出てくるんですよ。
徳光:
うん、うん。
工藤:
で、バキッていうんですよ。「ラッキー、詰まった」。それが右中間スタンドの中段まで行くんです。「えーっ、何で。今の詰まったよね、詰まった音がしたよね」って、キャッチャーの伊東(勤)さんに聞いたら、「バカ、真芯だわ」って言われて、「あ、そうですか」って。
徳光:
へぇ。
高校の後輩・イチロー氏に大サービス!?
徳光:
イチローさんはどうでしたか。
工藤:
イチローも半分、5割くらいいってると思いますよ。
徳光:
打たれましたか。高校の後輩ですけどね。
工藤:
後輩ですけど全然打たれた。

工藤氏のイチロー氏との通算対戦成績は75打数32安打、打率4割2分7厘だ。
徳光:
後輩にサービスしてましたね。
工藤:
いや、サービスしてるわけじゃないんですよ。どこに投げても打つんですもん。
左対左で外のカーブとかスライダーが打たれるんで、インサイドのスライダー、カットボールを投げたら見逃し三振になったんです。それから1カ月経って、「よし、もう一回この場面で」って投げたら、スコーンってライト線2ベースを打たれました。
徳光:
あぁ。
工藤:
だって1カ月前ですよ。その間にも対戦して、インサイドのカットボールは一切投げてないんですよ。考えてるレベルがはるか上。
“生卵事件”に王監督「本当のファン」

西武の主力投手だった工藤氏は、1994年オフにダイエー(現・ソフトバンク)にFA移籍。当時、ダイエーは成績が下位に低迷しており、1995年からは王貞治氏が監督として指揮を執った。
徳光:
西武とダイエーで、どういう違いを感じましたか。
工藤:
ダイエーは緊張感がない。ミスしても、「まあまあまあ、もういっちょ、もういっちょ」みたいな。その中で、「しっかりやれ」とか「試合のつもりで」とか、そういう意識が全くなかった。当時は「とにかくこなせばいいだろ、やればいいだろ」っていうような感じがちょっとあったかなと思いますね。
徳光:
そういうお話を聞きますと、王さんも大変なときに監督を引き受けたわけですね。
工藤:
なんていうんだろう、「プロとして何を意識して野球をやらなきゃいけないか」とか、王さんはそういう根本的な部分を、常に僕らに訴えてましたよ。
まあ、王さんとは監督室で色々な話をしました。ローテーションで投げてほしい曜日とか色んなことで相談してもらって、「こうしたいんだ、ああしたいんだ、お前もちょっと力を貸してくれ」っていうような感じで言ってくれてました。
徳光:
そういう会話が王さんとあったんですね。
工藤:
はい。

王監督2年目の1996年5月9日、日生球場での近鉄戦で敗れた試合後、ダイエーのふがいない戦いぶりに不満を爆発させたファンが王監督や選手の乗ったバスを取り囲み、生卵を投げつける事態が発生した。
徳光:
王さんが卵をぶつけられたこともありましたが、それから、ダイエーがどんどん強くなっていくじゃないですか。そういったときもずっと一緒だったわけですね。
工藤:
はい。よく「男の背中を見て」みたいなことを言いますけど、あのときの王さんの背中は、ほんとに「なんかすごいな」っていう目線で見てましたね。
徳光:
それは、どういうすごさですか。

工藤:
微動だにしなかったです。色々ヤジを飛ばされたりとか、卵をぶつけられたときも微動だにしなかったし、「あれが本当のファンなんだ」って、あとから言われましたね。「えーっ」と思いましたよ。
徳光:
本当のファンだからこそ、ああなったんだと。へぇ。
野球人生で一番うれしかった優勝

王監督が就任し工藤氏が加入した1995年には5位、翌96年は最下位に沈んだダイエーだが、そこから年々順位を上げていく。97年は4位、98年は3位。そして99年に福岡移転後初のリーグ優勝、中日相手の日本シリーズも制して日本一に輝いた。この年、工藤氏は11勝7敗、防御率2.38の成績で最優秀防御率、最多奪三振、MVPを獲得する大活躍だった。
徳光:
あのときのダイエーは強かったですね。
工藤:
若い子たちがどんどん出てきてレギュラーをとって、自分たちの力を出せるようになって強くなってきた。
徳光:
工藤さんの野球人生の中で、この優勝は本当にうれしかったんじゃないですか。
工藤:
はい。一番うれしかったです。
西武は、僕が入ったときには、もう優勝してたチームなんですよ。僕はそこにいさせていただいた。多少なりとも自分も努力することによって、それを継承させてもらって、強さを維持したっていうだけですけど、ダイエーはほんとに底にあったチームだったんで。
徳光:
そうですよね。
徳光:
工藤さんがソフトバンクの監督として1年目で見事優勝したときよりも、あのときの思い出のほうが強いですか。
工藤:
あっちのほうが、思い入れもありますね。
福岡まで来た長嶋氏に息子が「セコムのおじさん」

徳光:
でも、その思い入れのある球団をまた離れなければならなくなった。
この年の契約更改の席で球団代表から「工藤君の登板の火曜日は一番客の入りが悪い」と言われ、「この1年間の努力は何だったのか」と球団に不信感を募らせた工藤氏はFA宣言、巨人への移籍を決断する。
工藤:
僕らは、「必要だ」って思われるのか、「工藤くん、ありがとう」って言ってもらえるのか、どっちかでいいんですよ。
徳光:
戦力としてのワンピースであるってことですか。
工藤:
はい。そうです。僕らは所詮そういうピースでしかない。他の選手は「違う」って言うかもしれないですけど、僕は選手のときはそう思ってました。
徳光:
その強力な“工藤”っていうピースを欲しがったのが長嶋さんですよね。
工藤:
はい。
徳光:
長嶋さん、工藤さんへの熱い思いがすごかったですよね。

工藤:
ほんとにありがとうございました。飛行機に乗らない方なのに福岡まで飛行機で来ていただいた。僕がちょうど出てたので、ほんと申し訳ないっていうか…。
徳光:
散歩に行ってらしたんですって。
工藤:
娘たちとお昼ご飯を食べに行ってたんです。ちょうど注文した物が来たころに「長嶋さんが空港に着いたみたいよ」っていう電話があって、「えっ、出てきたから食べないわけにはいかない。かき込めー」って言って(笑)。食べてすぐ車に乗ってビューって帰ったら、ちょうど長嶋さんがタクシーを降りて、家の前に来るところだったんですよ。
徳光:
長嶋さんは「花道を巨人で」みたいなことを言ったらしいですね。

工藤:
「工藤くん、最後にね、男の花道をジャイアンツで飾ってくれ」と。「ありがとうございます」って。うちの嫁も嫁のお母さんもいました。長男も長女も座ってたかな。長嶋さんが入ってきた瞬間に、うちの息子が「あっ、セコムのおじさんだ」って言ってね。「なに言ってんだよ!」って慌てました。
徳光:
(笑)。
工藤:
そしたら長嶋さんが、「あ~、どうも~、セコムのおじさんですよ」って言ってくださって、場が和んで…。
徳光:
なるほど。いいですね。(笑)
工藤:
そうなんですよ。ちゃんと受けていただいて…。
200勝達成の試合でプロ入り初本塁打
巨人に移籍した工藤氏は2004年8月17日のヤクルト戦で完投勝利し200勝を達成する。この試合の7回裏、2対2の同点の場面で工藤氏はプロ入り初となるホームランを打ち自らの偉業に花を添えた。
工藤:
(自身のホームランなどで)3点取って帰ってきたとき、(監督の)堀内(恒夫)さんが「工藤、どうだ?」って聞いてきたんです。このときもう42歳だったですし、「そうですね。もうかなり疲労がたまってます」って答えたんです。
堀内さんは「そうか、そうか」って言ったんで、代えてくれるのかなと思ったら、「次に投げるピッチャーのこと考えろ。お前の200勝が懸かってる試合で、リリーフなんか投げさせられるか。お前が最後までいけ」って言われて、「はい、頑張ります」。
徳光:
プロ野球に入って初めてのホームランだったんでしょ。ご自分でもビックリしたのでは。
工藤:
もうビックリなんてもんじゃなかったです(笑)。
工藤氏はその後、2007年にFAの人的補償で横浜(現・DeNA)に移籍、現役最後のシーズンとなった2010年は古巣の西武に在籍した。実働29年は山本昌氏、中嶋聡氏と並びプロ野球最長タイ記録となっている。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/12/3より)
「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
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