昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

中日、西武、阪神と渡り歩き16年の現役生活で通算1560安打を積み重ねた田尾安志氏。中日時代は俊足巧打のリードオフマンとして活躍し、新人王、3年連続最多安打、3年連続ベストナイン、4年連続打率3割超え。真っすぐな性格ゆえに首脳陣と衝突することも多かったがファンには愛された“モノ言う天才打者”に徳光和夫が切り込んだ。

【中編からの続き】

星野氏が谷沢氏に対抗心!?

徳光:
中日って派閥はあったんですか。

田尾:
派閥というか、星野派だけですね(笑)。

徳光:
(笑)。

田尾:
派閥っていう意識が全くないから、仙さんとも谷沢(健一)さんとも普通にお付き合いさせてもらった。

徳光:
谷沢派はなかったんですか。

田尾:
谷沢さんも気にしない人なんで。

徳光:
そうなんですか。

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田尾:
僕は仙さんに紹介された人ともお付き合いさせてもらってたんですけど、あるとき、その人から「星野さんとケンカでもしたのか」って言われてね。「いや、してません」って答えたら、「『田尾とは付き合うな』って言ってるんだけど」って。

徳光:
そうなんですか(笑)。

田尾:
何があったか分からないと気分が悪いじゃないですか。

徳光:
そりゃそうですよね。

田尾:
それで、「僕、ちょっと仙さんとこ行って聞いてきますわ」って言って、家までお邪魔して、「仙さん、僕、何かやりましたか?」って聞きましたよ(笑)。
遠征に行くと僕は谷沢さんと飯を食うことが多かったんです。それがあんまり気に入らなかったみたいですね。

徳光:
じゃあ谷沢さんは星野さんを意識してなかったんだけど、星野さんは谷沢さんを…。

田尾:
星野さんはやっぱり意識してましたね。

イチロー氏がまねしたバット回しルーティン

日米通算4367安打をマークし日米両方で野球殿堂入りした球界のレジェンド・イチロー氏は、バッターボックスで構えるときに体の前でバットをゆっくり回すルーティンで知られるが、これは田尾氏をまねしたものだという。

徳光:
あのイチローさんは田尾さんのバッティングに憧れて、田尾さんをまねしたと。

田尾:
彼は名古屋近辺に住んでましたからね。

徳光:
田尾さんの独特のフォームをイチロー選手は参考にした。

田尾:
構える前にバットを回すフォームですよね。あれ、イチローと1回話したことがあって。「まねした?」って聞いたら、お父さんが「あれは田尾さんのまねです」って言ってました。
僕は全く無意識だったんですよ。

徳光:
というと。

田尾:
イチローとその話をしたときに、彼は「回すことによって、体が前傾してるのを自然と矯正する」って。体が前傾するとバットを回しづらい。

徳光:
確かにね。

田尾:
バットを回すことによって上体を腰の上に置く。
僕は最後にバットでヘルメットを叩くんですね。叩くことによってグリップをいつも同じところに置ける。「そういうのを自然とやってたんじゃないかな」っていう話をしたんですよね。

3年連続最多安打も西武へ衝撃のトレード

田尾氏は1982年から1984年にかけて3年連続リーグ最多安打を記録。不動のレギュラーだったが翌1985年のキャンプイン直前、突然、西武にトレードされる。

田尾:
僕も全く思ってないトレードでした。
あれは1月24日に「ちょっと選手食堂へ来てくれ」っていうことで、行ったら山内(一弘)監督と球団代表がおられて、代表から「西武とのトレードが決まりました」って言われたんですよ。
「えっ、どういうことや」と思ったんですけど、うろたえたくなかったんですよ。それで、「ああ、そうですか。わかりました」ってすぐ出たんです。

徳光:
そうですか。ということは、それまでに何かあったんですかね。

田尾:
代表とは合わなかったんです。
僕は選手会長で、あの当時、選手には権利があまりなかったんですよ。こっちが選手代表で話し合いに行くんですけど、それが嫌なんでしょうね。僕はゲーム前、これからゲーム始まるってときに、「田尾くん、こんな成績だったら減俸だな」って言われたことがあるんですよ。

徳光:
へぇ。

田尾:
その一言に僕は頭に来て、「金のために野球やってませんよ」って言ったんですよ。それも代表には残ってたんだろうなと思います。

きめ細かい“広岡野球”が面白い

田尾氏は移籍した西武に2年間在籍。1年目は広岡達朗監督、2年目は森祇晶監督のもとでプレーし2年ともリーグ優勝、日本シリーズに進出した。

田尾:
2年いましたけど2年とも日本シリーズに出て、いい経験をさせてもらいました。
やっぱり“広岡野球”は中日の野球よりもきめが細かくて、あそこで色んな勉強をさせてもらった。広岡監督は厳しかったんですけど、野球人としてはすごく勉強できた1年でしたね。

徳光:
なるほど。

田尾:
徹底してたのはノーアウト2塁なら必ず右打ち。これはもう徹底するんですよ。だから清原でも右打ち。レフトにホームラン打ってもダメ。

徳光:
そうなんですか。

田尾:
盗塁のサインが出てたら、必ずバットのヘッドをキャッチャー側に倒してから戻す。パッて傾けるだけで、キャッチャーが一瞬、前に出づらいんですね。それだけで重心の移動がしづらい。

徳光:
へぇ。

田尾:
ランナー三塁一塁で一塁ランナーが挟まれたときには、必ず一塁から二塁に向かう方向でアウトになるんですけど、その最後の最後、「タッチされる寸前は外野側に倒れろ」と。そうすると「野手のタッチが外野側に向かうんで、三塁ランナーがホームに走るときに投げにくいんだ」と。

徳光:
そういう野球は田尾さんにとっては…。

田尾:
驚きました。面白いなと思ったんですよ。野球って、こんな深いところまであるんだなって。

「ルーキー清原」の守備位置で森監督と溝

徳光:
広岡さんの翌年は森さんになるわけじゃないですか。野球は違いましたか。

田尾:
全く違いました。森さんは選手をおだてるようなこともやるし、そういううまさを持ってるんで。
僕が森さんと合わないなと思ったのは、“清原問題”ですよね。

徳光:
清原(和博)さんのポジションですか。

田尾:
清原が入団したとき、清原をサード、秋山(幸二)をセンター、僕をファーストっていう案があったんですよね。
森監督から「どう思う?」って聞かれたんですね。あれは聞いてほしくなかった。「こうするから、お前、今年は一塁やってくれ」って言われたら、「はい」って、それで終わりですよね。それを「どう思う?」って選手に聞くわけです。
そしたら、僕は必ず意見を言うタイプなんで(笑)。「清原は高校生のスーパースターだけどプロの実績はゼロですよ。清原のために3つのポジションを試すっていうのは、僕はいい案だとは思いません」って言ったんです。そこから合わなくなった。それからやっぱり出番が減りましたから(笑)。

徳光:
選手を続行するために、根本(陸夫)さん(当時・管理部長)のところに行ったんですよね。

田尾:
はい。僕は根本さんに「トレードで出してもらえませんか」ってお願いに行ったんですよ。「何かあったのか」って聞かれて、「森さんのもとで来年もやるのはちょっときつい。森さんも多分ほかの選手を使おうと思ってるでしょうし、この年齢でそこで1年はちょっときついんで、どこかほかでやれませんかね」って。それで、阪神になったんです。

村山監督に「ざまあみろ」意地のサヨナラHR

田尾氏は1987年からの5年間を阪神で過ごした。吉田義男監督、村山実監督、中村勝広監督という3人の監督のもとでプレーしたが、当時の阪神は下位に低迷するシーズンが続いていた。

田尾:
1年目の吉田さんのときは、僕は一番成績が悪かったんです。そのときは期待されてるのに結果が出せなくて、ほんとに申し訳なかったなというシーズンでした。
村山さんのときも、またぶつかって…、いや、僕はぶつかってないんですけどね。

徳光:
どういうことですか。

田尾:
村山監督が一軍の野手全員を集めて、「今のこの苦境をどうやって脱するか、何かいい意見があったら無礼講で言ってくれ」っていう場を作ったんですよね。「田尾、ないか?」って聞かれたんで、「勝つ野球をしてほしい」って言ったんですよ。勝つための野球。

徳光:
ええ。

田尾:
「ひとつでも多く勝つために、どういうことが大事かを考える野球をしてもらいたい」って。そしたらシーンとしてしまいまして、そこからまた出番が減っていきます(笑)。

徳光:
そうですか(笑)。

田尾:
(笑)はい。

田尾:
その後ずっと思ってたんですけど、村山さんはほんとに純粋な野球人ですね。悪気のある人じゃない。
見逃し三振して二軍に落とされたんですけど、次の日から練習に行って、若手の前で先頭に立って練習してナンバーワンの成績残しました。

徳光:
二軍でですね。

田尾:
はい。それでも、「たぶん上には上げないだろうな。もう飼い殺しだろう」と思ってたんです。そう思ってたら、上げてくれたんですよ。「あら、村山さん、上げてくれたわ」と思った。その年、ホームランを4本打ってるんですよね。そのうちの3本がサヨナラホームランなんです。

徳光:
そうだ。巨人戦もあったな。

田尾:
巨人戦、2回あります。あとは広島戦。あのときは一瞬「ざまあみろ」と思ったんですけど(笑)。でもね、打ってダイヤモンドを回ってる間に、そういうものはすべてなくなりましたね。

徳光:
へぇ。

田尾:
「村山さん、上げてくれたわ」と思ってね。

引退もスパッと決断

1991年を最後に田尾氏はユニフォームを脱ぐ決断をした。

田尾:
引退は監督が中村勝広さんのとき。
二軍落ちって言われたわけです。そのとき「自分の思った野球をやってください。僕はいつ辞めてもいいですから」っていう話をしに行ったんです。僕が心の中で期待してた言葉は、「いや、お前の1打席が欲しいんだ。だから、二軍で調整してもう1回上がってきてくれ」。そう言ってくれれば、僕はまだやってたと思うんですけど、そのとき中村さんは、「お前、それでいいのか」って言ったんですよ。「それでいいのか」は、もう戦力としては見てないなって思いました。

徳光:
ということですよね。

田尾:
自分ではそういうふうに受け取って、もう、「今日、僕辞めます」と言って。

徳光:
そうですか。

田尾:
はい。その場で「お世話になりました」って言って、ほかのコーチ連中みんなにご挨拶に行きました。

徳光:
現役最後の打席って覚えてますか。

田尾:
覚えてないです。あっ、ヒット打ちましたね。

徳光:
クリーンヒットですよ。

田尾:
広島戦かな。ライト前に打ちましたね。あのときは、「あっ、まだやれる」と思ったんですけど(笑)。

徳光:
そうでしょ(笑)。
どうですか、ご自身のユニフォーム生活を振り返ると、人生の選択は間違いがなかったと思われますか。

田尾:
間違いはないですね。僕はプロ野球に入るとき、自分で「ここまでやったらオッケーにしよう」って思ってたのが35歳なんです。35歳を自分の目安にしてたんですよ。37歳までできたので、「内容はどうであれ、とにかく良かったな」って自分では思ってるんですよね。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/11/5より)

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