それを保障するのが、本来は外部的なものだったのです。つまり共同体であり、家であった。
理解してもらえようがもらえまいが、共同体の中で役割があり、家のなかでしきたりがあった。死ねば同じ墓に入るのが当たり前でした。本来は無条件で自分を引き受けてくれる装置として共同体や家が機能していたわけです。
相手のことがわかっていてもわかっていなくても、こいつと一緒にやっていくしかない、ということが当たり前に受け入れられていた。夫婦も結局はそういう取り決めでしょう。

もちろん、相手に理解してもらえる、共感してもらえるというのはとても嬉しいことでしょう。でもそれはなぜ嬉しいのか。わかってもらえない、理解してもらえない、共感してもらえないのが前提だからこそ嬉しいのです。
いつも理解してもらえて共感してもらえるのならば、そんなに喜びは感じられません。他人は自分をわかってくれないものだと思っていれば、少しでもわかってもらえた時に嬉しいでしょう。
講演で多くの人に向かってお話をしてきましたが、私自身は何かをわかってもらえるといった期待はしていません。相手がどのように受け止めるかとか、真意が伝わったのかといったことは考えないようにしています。

声が小さいのを何とかしようとか、滑舌に気を付けようといったことは考えますが、それ以上のことはこちらがあれこれ考えても仕方がない。
原稿を書くにあたっても、読者にわかってもらいたいという気持ちがないわけではありません。しかし実のところ、独り言に近い。一人でぶつぶつ言ったり、くそーと叫んだりしているようなものです。
私から見れば、他人に理解してもらえると勝手に期待して、勝手に失望して、落ち込んだり悩んだりするのは変なことです。