拷問映像の真偽は・・・?

「清津市の国家保衛部の施設で拷問を受ける北朝鮮住民」映像(放送は見送られた)
「清津市の国家保衛部の施設で拷問を受ける北朝鮮住民」映像(放送は見送られた)
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Mr.Xから提供された「拷問映像」を、僕は北朝鮮の非人権的な取り調べとしてネタにすると本社に提案したが、本社からはしばらく放送は見送るとの回答だった

その後、僕は、支局のスタッフと“拷問の行われた”清津出身の脱北者のインタビューを何人か撮影した。清津の地理については分かるが、一般の住民が国家保衛部の施設について自信をもって答えられる人はいなかった。

清津市内
清津市内

そこで、当時韓国には1人しかいないと言われていた国家保衛部出身の脱北者とのアポイントメントをとってもらった。彼はその時、韓国の情報機関で仕事をしていたようで、なかなか応じてもらえなかったが、スタッフの熱意で何とか実現にこぎつけた。

「拷問」が撮影された清津市内の施設
「拷問」が撮影された清津市内の施設

面会場所には、日本大使館に近い小さなホテルを面会場所に指定された。小さな部屋でノートブックに撮りこんだ拷問映像を見てもらった。しばらく黙って見た後、この施設は北朝鮮内の国家保衛部の施設に間違えない、場所も清津だろうと語った。

「拷問」映像について説明するMr.X
「拷問」映像について説明するMr.X

しかし、そこからが違った。
「保衛部では取り調べの際に後ろ手に縛ったりしない。必ず前で縛る。撮影を意識したものではないか」
この意見について、ソンジン氏に伝えた。
「調べるときは後ろ手だったが、供述を得られないので、後ろ手にして暴行をしたのではないか」との意見だった。

僕は、東京の本社を説得できない限り放送できないと説明するのが精一杯だった。

脱北者からもたらされた貴重な情報

当時、僕はソンジン氏以外にも複数の脱北者と付き合いがあった。反北朝鮮の団体の集会に取材に行くだけでなく、その後の打ち上げにも顔を出していた。一緒にゾジュ(韓国焼酎)を酌み交わし、彼らの話に耳を傾けた。

そのうちの、ある脱北者の結婚式にも呼ばれたことがある。彼は若いころに脱北し、大学を出て大手銀行に勤務していた。彼はある意味、韓国に来て成功した脱北者の一人だ。彼の結婚式はソウル江南地区の有名ホテルで100人以上の規模で催された。招待客にはアンミョンジン氏もいて、日本人の僕が招待客に含まれていることに驚いていた。

別の脱北者から突然、携帯に電話がかかってきた。僕以外にも韓国人スタッフとも面識があったが、わざわざ僕の携帯にかけてきた。

「明日の朝、北京の日本人学校に脱北者が大量に駆け込む。関心があるなら、リ社長に電話しろ。今からいう番号だ」

情報漏れには細心の注意を払う必要があった。駆け込む脱北者が、中国の公安に捕まれば、北朝鮮に送り帰され、集結所から鍛錬隊や収容所に送り込まれることになる。仲介役のリ社長も中国の裁判所で裁かれることになる。ソウル支局から北京に行き、僕らが撮影すれば情報は洩れない。

ただ、日本人学校は、中国の公安の警備が厳しい地域にあり、撮影するには、下見も含めて準備が必要だ。飛行機に飛び乗っても北京着は深夜になる。結局、東京の本社を説得し北京支局に動いてもらうことになった。後輩の北京支局の記者に、仲介役のリ社の電話番号を伝えた。

脱北者の中国にある日本関連施設への駆け込みと言えば、共同通信の記者が2002年に瀋陽の日本領事館に脱北者家族が駆け込もうとして捕まる映像を撮っていた。両親が捕まる際に傍らで泣いていた女の子ハンミちゃんが印象的だった。この写真はその年の新聞協会賞をとるスクープになり、世界中の世論を喚起しハンミちゃん家族は結局無事にソウルに来ることができた。

脱北を支援する団体にしてみれば、マスコミに撮影させておけば、世界中で放送され、駆け込む人間の安全は担保されると考えてもおかしくはない。

慎重すぎるほどの報道

決行日の朝、情報のない中、僕はソウルでソワソワと待っていた。東京の上司からは「うまく行ったようだ」と一言、携帯電話に連絡があった。

報道は極めて慎重だった。上司からは、中国は取材の難しい国で、北京支局の今後の取材活動が制限されないためにも、放送の仕方は慎重に考える必要があると諭された。

2004年9月1日 北京の日本人学校に脱北者とみられる29人が駆け込む瞬間
2004年9月1日 北京の日本人学校に脱北者とみられる29人が駆け込む瞬間
 
 
 
 

うちが静観する中、気づいた共同通信が昼過ぎに速報、うちもそれに続く形でニュース速報をうった。映像を使用するのは夕方からとなった。どんな様子だったかはニュースの映像をみて初めて知った。

北京の日本人学校裏の路上に停めた車で支局のスタッフが待ち構える中、脱北者20人ほどが現れた。そして、金網を乗り越え中に入っていった。警備にあたっていた中国の公安が気づいた様子はない。異例の大量脱北が成功した瞬間だった。

映像は、「脱北者が日本人学校に入る映像を入手した」とあたかも第三者が撮り提供を受けたようにするほどの慎重さだった。

後から聞いた話だが、ここまで神経をつかって報道をしたにも関わらず、北京支局のスタッフは、在北京日本大使館と関係が険悪になったと聞いた。日本人学校に不法な侵入者がいるのを知っていながら黙っていて、北京の邦人の子女を危険にさらしたと非難されたという。

中国の公安警察からもマークされたことだろう。脱北者を手引きする団体関係者の携帯番号を知っているので、同様の駆け込み情報を入手できたかも知れないが、その後同様の駆け込みを取材することは無かった。

脱北者は、北朝鮮の食糧難で1990年の後半から増加傾向をたどり、北京の日本人学校に駆け込んだ年には、2000人に迫る勢いだった。当時の北朝鮮融和政策をとっている韓国政府にとっては、スッキリ「ようこそいらっしゃい」とは言えない存在だった。

脱北者を支援する団体もいろいろある。人道主義の観点から取り組んでいるところもあれば、脱北を手助けすることを条件に多額の金を要求され、現金の準備がないと韓国入国後に働いて返さなければならないケースもあると聞いた。

共同通信の撮影したあの「ハンミちゃん」一家を、韓国に来たあとに取材する機会があった。韓国の一般的な人が住む共同住宅で暮らしているという。ソウル市内で会ったハンミちゃんは笑顔で走り回っていた。

ハンミちゃん一家を取材する筆者
ハンミちゃん一家を取材する筆者
2004年11月9日 笑顔で走りまわるハンミちゃん
2004年11月9日 笑顔で走りまわるハンミちゃん

日本人学校に駆け込んだ脱北者は幸せに暮らしているだろうか。

そして私はこの後、Mr.Xについての驚愕の事実を知らされることになる。(次回へ続く)

【執筆:フジテレビ FNNプロデュース部長 森安豊一】

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森安豊一
森安豊一

論より証拠。われわれの仕事は、事実の積み上げであり、事実に対して謙虚でなければならない。現場を訪れ、当事者の話を聞く。叶わなければ、現場の近くまで行き、関係者の話を聞く。映像は何にもまして説得力を持つ証拠のひとつだ。ただ、そこに現れているものが、全てでないことも覚えておかなければならない。
1965年福岡県生まれ。
福岡県立東筑高校卒、慶應義塾大学文学部人間関係学科社会学専攻卒。
警察庁担当、ソウル支局特派員、警視庁キャップ、社会部デスク、外信部デスク、FNN推進部デスク、FNNプロデュース部長を経て報道センター室長。
特派員時代は、アフガニスタンや北朝鮮からも報告。