東京都小笠原村の父島には、第2次世界大戦当時、太平洋の戦況を知るための通信施設や、米軍の通信傍受を行う重要な施設が置かれていたという。島内には今もそうした戦跡が残っている。

石とセメントで作られた部屋は、空からの攻撃から中の人を守るため天井に鉄板がはめられていた。水の流れる川が無い場所には飲料水を確保するための貯水槽が作られていたが、それでも足りないので、雨水を集める一升瓶を木に立てかけた跡があちこちに残されていた。竈から煙が真っ直ぐ上がって、敵に居場所を気づかれないように煙突も工夫されていた。
施設と施設をつなぐ通路は塹壕が掘られていて、更にその先には壕の入り口が見えた。人ひとりが屈んでやっと通れる入り口をくぐり抜けて進むと、外明かりが漏れている場所に着いた。そこには大砲が据え付けられ、砲身が海に向けられていた。
父島の欧米系島民と旧島民
父島までは、東京・竹芝桟橋から「おがさわら丸」で24時間かかった。父島の二見港に迎えに来てくれたのは、この地で宿を経営する瀬堀(せぼり)さん。瀬堀さんの先祖はアメリカ人のセイヴァリー氏で、江戸時代に黒船で日本に来航したアメリカのペリー提督と50ドルで二見港の一角を使わせる契約を結んでいたという。

当時のアメリカはクジラ漁のために太平洋を日本近くまで足を延ばしており、物資の補給基地を求めていた。セイヴァリー氏らは、補給の商いの為にまだ無人島だったこの地に入植したそうだ。彼らの子孫を欧米系島民という。
その後、江戸幕府が八丈島の島民らを開拓のため入植させた。こちらの子孫は旧島民と呼ばれている。明治9年に正式に日本の領土となった後、セイヴァリー氏らは「アメリカに帰るか、日本に帰化するか」選択を求められ、「瀬堀」に名字を変え残ったとのこと。

瀬堀さんは、徳川家康の家臣の小笠原氏が、セイヴァリー氏が来る前に父島を発見していたという話があることや、太平洋を越えて初めてアメリカに渡航した咸臨丸も来航したことなど、史跡を巡り、時折私見を交えながら島の歴史を説明してくれた。
父島の二見港は、山で屏風のように囲まれた静かな湾内の港で、アメリカ以外にも、イギリスも関心を寄せていたそうだ。
第2次大戦中、要塞だった痕跡が今も残る
夜になって、星をみるために島の外れを訪れた。島には珍しく開けた場所だったが、そこは旧日本軍が飛行機の発着のために作った滑走路の跡地だったと知らされた。
小笠原諸島では、硫黄島が激戦の場として知られているが、父島は太平洋の戦況を知るための通信施設や、米軍の通信傍受を行う重要な施設が置かれていたという。翌日、ガイドと一緒に80年前の戦跡を訪れてみた。

最初に訪れたのは、米軍の攻撃で座礁した輸送船の残骸。錆びついた船橋が波間から顔を出していて、沈んでいるが船体のシルエットが確認できる。今は漁礁となり、ダイビングスポットでもあるそうだ。
そこからほど近いところに米軍の偵察・爆撃機の残骸が残されていた。大破しているが、翼にはフラップが付いているのが確認できる。一部切り取られたような跡があるが、米軍の遺族が切り取って持ち帰った話があるという。また心無いマニアが持ち帰った可能性もあるとのこと。
米軍による空爆…栄養失調などによる病死も
通信施設のあった夜明山を訪れた。現在も自衛隊のアンテナが設置されているが、その近くに通信施設の発電所があった。建物は米軍の爆撃で壁に大きな穴があいていたが、火力発電のタービン2基の台座の跡が確認できた。通信施設を守るために、日本軍は島全体を要塞化していた。

冒頭で書いたように、日本軍は亜熱帯林に覆われた山中から海に面した崖に向けて壕を掘り、船から外した射程距離が15kmもあるという大砲や連射できる自走砲を設置し、米軍の上陸を阻んでいた。硫黄島では上陸作戦に大きな犠牲を払った米軍だが、父島では大きな上陸戦はなく空から攻撃を行ったという。シダの木にも空からの銃撃の跡が残されていた。
補給物資を絶たれ、兵士の多くは栄養失調で免疫力が低下していた。その上、山中では水の確保もままならなかったため、不衛生な水を飲み倒れていったという。山中には野戦病院を作る場所もなく、島の南側の山の斜面に穴を掘って患者を収容していたとのこと。父島の日本兵は病死も多かったという。
終戦80年、これからの父島
終戦後に、小笠原諸島は連合国の施政権下となり、欧米系島民は一足先に島に戻れたが、旧島民は1967年のアメリカからの返還まで戻ることは出来なかった。米軍は回収しきれなかったのか、残ったものを誰かが整えたのか、山中に多くの戦跡は残されたままだった。
戦跡のガイドをしてくれたのは、島出身者ではなく最近島に移り住んだ元研究者の男性だった。軍事施設や兵器に元々関心があったという。父島は人口約2000人だが、復帰後の移住者である新島民が多く、小笠原村全体では7割を占める。父島住民の平均年齢は約38歳で東京で最も若い。小学校も1学年3クラスあるという。

島へのアクセスの手段は、24時間かかる「おがさわら丸」だけだが、更なる発展のために日本軍の滑走路跡地を改修し、空港を建設すべきという声もあるという。一方で「この不便さがインバウンドによるオーバーツーリズムを避け環境破壊を防いでいる。このままで良い」という声も聞いた。住民がどちらを選択するか判らないが、歴史に翻弄された島の世界自然遺産はしっかりと守っていかなければならない。
(フジテレビ 森安豊一)