鹿児島県の大島海峡は奄美大島と加計呂麻島に挟まれた穏やかな海で、かつては軍港が存在した。海峡の入り口にあたる瀬戸内町の西古見には、大島海峡に入る敵の船を見張る観測所が残されている。戦争の歴史の影と、島を守ろうとする人々の現在が交錯する場所を訪ねた。
壕の奥には陸軍弾薬庫 今も残る戦争の痕跡
観測所は高台の山をくりぬくように作られていた。草木に覆われ、海側から位置を確認するのは難しい。細いが視野の広いのぞき窓から船を監視していたが、望遠鏡は撤去されていた。

のぞき窓の上の壁には、そこから見える風景と同じ位置に島の絵が描かれ、ここからの距離が書きこまれていた。

これを参考に敵の船との距離を計算し、砲撃の角度や方向を決めていたのだろう。

現在の大島海峡は穏やかな海を活かし、入り江にマグロの養殖場が点在する。
「長崎県の五島に抜かれる前は、漁獲は1位だった」と地元の関係者が語るほど。港で食べた「クロマグロ丼」は美味だった。

瀬戸内町の中心部に近い壕の奥には陸軍弾薬庫もあった。湿気の残る細い通路には大きなカタツムリが張り付いていた。
さらに奥に進むとコウモリが飛んだ。戦時中は地元の人にも弾薬庫の存在を秘匿していたという。

弾薬庫そのものは鉄骨をコンクリートで固め、さらに銅板を張り巡らせるなど二重壁の構造だったというが、80年以上の歳月のためか、崩落の恐れがあるとのことで弾薬庫の中に入ることは出来なかった。

壕に格納された「海の特攻隊」の模型 島を守る努力続く
大島海峡をフェリーで加計呂麻島に渡った。
海峡の反対側にも戦跡は残されていた。入り江の一角に壕が掘られていた。劣勢の戦況を挽回するために特殊兵器としてつくられた震洋。

ベニヤ板の船に大量の火薬を積んで敵の船に衝突させ自爆するという。動力は量産のために自動車のエンジンを流用していたとのこと。
「海の特攻隊」だ。
壕に格納されていたのは再現された模型だった。

震洋隊の隊長として加計呂麻島で終戦を迎えたのは作家の島尾敏雄氏。近くに島尾氏の文学碑と墓があり、この地で知り合った夫人と娘の3人で眠っている。

島尾敏雄氏は本の中で、震洋を格納するための壕を掘るのに、地元の中学生も駆り出されたとしている。掘っていた壕は、特攻隊の船を格納する為だったとは知らされていなかっただろう。

現在、加計呂麻島には、7校の小中学校があるが2校は休校中で、生徒の総数は57人だ。(4月1日時点)
訪れた須子茂小学校は、立派なデイゴの木が校庭にあり遊具を兼ねている。かつて教育勅語と御真影が収められていた奉安殿は生徒のタイムカプセルになっているが、廃校になって久しいという。

何とか校舎を無くさないために、大阪から帰郷した女性が月に1回子供食堂をやっているという。8月には、お米の提供を受けたそうで、おにぎりは無料、かき氷をこども0円、おとな100円で提供すると書かれていて、集落の外からもたくさんの人が集まったという。
島を守る努力は続いていた。
(フジテレビ 森安豊一)