Mr.Xと友人を訪ねて広島へ

キムソンジン氏は、時折友人の話をすることがあった。よほど親しかったのか、その友人は日本からの帰還者で、その広島の故郷に行ってみたいというのだ。僕は、ソンジン氏を東京の本社でインタビューする名目で、上司に引き合わせ、そのついでに広島に行くことを考え、東京の上司もそれに同意してくれた。

ソンジン氏の日本行きは、国家情報院のチェックが出国の際に入るかもしれないと考え、僕らは別々の便で東京に行き、ソンジン氏のために予約しておいた会社に程近いホテルで合流した。

Mr.Xと一緒に東京本社へ
Mr.Xと一緒に東京本社へ
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本社では、編集室の大きなモニターある編集室でインタビューした。最初に僕が映像に沿って質問をし、追加で編集担当のディレクターが質問した。編集担当のディレクターはVTRの中でソンジン氏を見ていたが、本人を目の前にして緊張していた。

インタビュー後、外信部の上司や番組担当の上司に会わせたが、そっけないものだった。

Mr.X「友人の故郷・広島に行きたい」
Mr.X「友人の故郷・広島に行きたい」

翌朝、品川から新幹線で広島を目指した。新幹線に乗る前にお茶と駅弁を購入した。「これが日本流だと」と説明すると、目をぱちくりさせていたが、ふたを開けるときれいに平らげた。

在来線を乗り継ぎ、広島郊外へ
在来線を乗り継ぎ、広島郊外へ

ソンジン氏は北朝鮮の友人がかつて住んでいたという広島の詳しい住所を番地まで詳しく記憶していた。広島駅から在来線を乗り継いで、最寄りの駅まで行った。ところが、町名より下の細かい地名が変わっていて、交番でも聞いてもわからないという。結局、昔からあるというクリーニング屋さんに聞いて、大体この一角という所までわかり、足を運んだ。

僕は、玄関を開けて問い合わせようと思っていた。

「もういい。ありがとう」
ソンジン氏はそう言って、その場をあとにした。

温泉で聞いた彼の過去

その日は新幹線で神戸まで移動し、有馬温泉ではない、池のそばの温泉で一泊した。温泉に入ると、ソンジン氏は落ち着いた表情になった。浴衣姿で、焼酎のお湯割りを飲みながら夕食を食べた。いつもより、一緒にいる時間が長かったので、色んなことを話した。

「自分は、朝鮮労働党の幹部の息子なので、自由に貿易ができる。脱北後も一度北朝鮮に帰ったことがある」

どうやって入国したのか聞くと、中国経由で最後は船で上陸したとの説明だった。

同じ畳の部屋に布団を敷いてすぐに眠りについたが、ソンジン氏の声で目が覚めた。大声で息子の名前を呼んでいる。2回、3回。しかし、ソンジン氏は確かに寝ている。寝言だ。何か悪い夢でもみていたのだろうか。

翌日、関西空港から、行きと同じ理由で別々の飛行機でソウルに戻った。

北朝鮮の撮影者が捕まった

中朝国境地帯の施設
中朝国境地帯の施設

「困ったことが起きた」とソンジン氏から連絡が入った。

撮影者がカメラを鞄に忍ばせ、ミサイル工場を撮影していたが、従業員の一人がレンズに気付き、撮影者は捕まってしまったという。

「撮影者は、国家保衛部関係者なので、たいていの所には行ける」とソンジン氏は以前から話していた。撮影に慣れてきて油断していたのだろうか。

数週間後に心配して問い合わせると、多額の金を払って解決したという。地獄の沙汰も金次第ということか、僕は、ほっと胸をなでおろした。

別のある日、ソンジン氏から会いたいと突然電話があり、ソンジン氏の車に同乗することになった。

「国情院の知り合いの紹介で、この人物と会った」
と名刺を見せられた。別の民放局の支局長の名刺だった。この局は在東京の大使館と強いパイプがあると思っていたが、うちが北朝鮮の内部映像を次々と放送するのをみて、東京ルートで国家情報院に働きかけてきたのかと思った。

「紹介されたけど、好きになれなかった」

ソンジン氏は運転しながらそんなことを呟いたが、そのことを告げる狙いが何かよくわからなかった。その後、その局のニュースでソンジン氏が提供したと思われる映像が出てくることはなかった。

 別の機会だったが、ソンジン氏はこんなことを言った。
「森安さんにするかどうか、他にも候補がいた。結果として森安さんにして良かった。」

この話を聞くとソンジン氏の個人的に小銭稼ぎでなく、組織的に北朝鮮映像を出していたともとれる。そんなことをするのは誰か?

日本でも政府機関からのリークはある。政治家、省庁が自分たちの考えを実現に近づけるために記者に情報を流すことがある。

当時の韓国政府は対北融和政策だったので、映像で出てきたような北朝鮮の非人道的な部分はできれば伏せたいはずだ。一方で対北朝鮮と諜報戦を続けてきた情報機関の国家情報院にとって対北融和政策は面白くない状況なので、情報を日本のテレビ局に流したとしてもおかしくない。ソンジン氏も昔は国家情報院と付き合いがあったと打ち明けていた。

アメリカの情報機関もありうる。延吉で渡され、ソンジン氏に渡したテープの中にはUSAと書かれたものがあったが、そのテープはおそらく僕は見せてもらっていないだろう。

再び延吉で待ち合わせ
再び延吉で待ち合わせ

また、ソンジン氏と中国の延吉に行くことになった。商用があるというソンジン氏が先に延吉入り。僕は、翌日合流する予定だった。前日にソウル駐在の他社の記者と飲んでいる最中に、ソンジン氏の携帯から「明日は何時に来るのか?」との問い合わせの電話があった。僕は、飛行機をまだ予約していなかったので、「明日朝予約して電話する」と告げ電話を切った。

翌朝、見慣れない番号から電話。出るとソンジン氏の夫人だった。夫人からの電話は初めてで、異常な空気を感じて「どうしましたか」と尋ねると、昨日からソンジン氏と連絡がとれないという。前日に電話でソンジン氏と、延吉で会う約束をしていたことを説明し、自分からも何度か電話してみる旨を伝えた。

拘束され連れ去られたMr.X

「電波が通じないところにいるか、電源が入っていないためかかりません」

何度かけても同じメッセージが流れるだけだった。上司に相談し、その日の延吉行きは取りやめになった。夫人にもそのことを伝えた。

数日後、夫人と会社の近くで会った。一緒にいた親戚曰くソンジン氏は、郊外の待ち合わせ先で拘束され、そのまま連れ去られたという。僕は、頭の中がグルグル回るのを感じた。

ソンジン氏を連れ去ったのは誰か。北朝鮮のミサイル工場を撮影していた仲間が捕まった時は、「金で解決できる」と話していたが、ソンジン氏の関与を供述した可能性はある。中国側とは言え、北朝鮮関係者が多数出入りしている。北朝鮮の治安機関が、ソンジン氏を拘束して、連れ帰ったと考えるのが自然だろう。

僕は、キルジュの脱北者の集められる施設にいたという脱北者の女性の言葉を思い出した。

「映像を撮っていた男が公開処刑にされるのを見た」

キルジュ集結所
キルジュ集結所

本名は「カン・ゴン」

僕は、夫人に質問した。
「ご主人は、僕にはキムソンジンと名乗っていた。本名がわかるものを見せてほしい。」

夫人は、パスポートのコピーを見せてくれた。
「カンゴン」と書いてあった。

これが彼の本名なのか。そういえば、延吉であった親戚を名乗る人物も「カン社長」と呼んでいた。脱北後に変えた名前かもしれない。僕にとって「キムソンジン」「カンゴン」いずれも決して忘れてはいけない名前になった。

この話は、すぐに東京にも報告したが、ソウルの事務所では僕と上司2人の秘密だった。

ある日、韓国人スタッフが朝鮮日報のネット版の記事を持ってきた。
政治犯収容所など北朝鮮の内部映像を入手した脱北者が北朝鮮に拘束された」

書いたのはあの脱北者出身のカンチョルファン記者だった。国情院から得た情報か、それとも脱北者団体から得た情報か。記事が出る直前に夫人から電話があり、朝鮮日報に記事が出るが止められないと聞いていたので、それほど驚かなかったが、実際に活字になってみるとやはり衝撃的だった。ただ、この記事は電子版のみで掲載され、朝鮮日報の新聞に載ることはなく、他社が追随することはなかった。

邦人が拉致され、実行したのが北朝鮮の疑いがあれば、連日トップ扱いで各メディアが報道してもおかしくない。対北融和政策のせいなのか、各新聞社の判断なのか。

数か月後に、夫人から連絡があり、デパートの喫茶コーナーで待ち合わせた。あの長男を連れてきていた。父親の状況を知ってか知らずか、夫人の横におとなしく座っていた。僕は、ふと一緒に広島に行った時にソンジン氏が寝言で長男の名前を大声で呼んだことを思い出した。

何かの前触れだったかもしれないとも思った。口を開けば何も怖いものはないというソンジン氏だったが、心の中では日々ストレスを感じていたのかもしれない。

ヨドク政治犯収容所
ヨドク政治犯収容所

「子供も主人が長く帰ってこないのはおかしいと思い始めている」と夫人が語った。

夫人によると、ソンジン氏は北朝鮮に連れていかれ、施設に拘束されているという。そして、写真を見せてくれた。履歴書に貼る証明写真くらいの大きさのカラー写真だ。僕が知っているソンジン氏と比べると、とてつもなく痩せているが、間違いなく本人だ。

「生きていて良かった」僕は、言葉に出して言った。

ある施設から別の施設に移される際に撮影されたもので、お金を積んで入手したという。

脱北者の一時拘留施設から、正式な収容施設に移されたということか。ソンジン氏が持ってきたこれらの施設の映像が思い出された

語らずにいた期間が長すぎたのか

ヨドク政治犯収容所
ヨドク政治犯収容所

「もっとお金を積んで何とか韓国にもどしたい」
夫人は時折子供の方を見ながら話していた。

「何かあれば、携帯に連絡ください」
通常の特派員の在任期間は4年だったが、僕はソウルでの任期の延長を申し入れ、本社も僕の意向を尊重してくれた。ソンジン氏が帰ってくるのを見届けたかったのだ。

だが、1年待ってもソンジン氏は戻ってこなかった。
離任の際に夫人に電話を入れたが、状況に変化はなかった。僕は、日本での携帯番号を告げてソウルをあとにした。

ムサン労働鍛錬隊
ムサン労働鍛錬隊

それから、10年以上が経過した。夫人は電話番号を変えたのか、電話は通じなくなってしまった。ソンジン氏と約束した「いつか映像の編集の仕方を教える」という約束は果たせぬままだ。ソンジン氏のことを相談してきた本社の上司からは、「Mr.Xの事は俺が書いてやろうか」と持ち掛けられたことがあった。

ソンジン氏のことを明らかにせず北朝鮮を刺激しないことが、最良と思っていた。
「まだ早い。書くときは自分で書きます」と返した。
今にして思うと、黙っていた期間が長すぎたかもしれない。

あれから14年の時が過ぎ・・・

カン・ゴン氏は今どこに・・・
カン・ゴン氏は今どこに・・・

そもそも、キムソンジンとは何者だったのか、脱北者出身で、北朝鮮との間でビジネスをしていた。北朝鮮の映像を撮ってきたが、それは彼の言う国家保衛部の関係者が撮影したのか、彼が言う通り、もともと朝鮮人民軍の貿易担当者だったのか、韓国の国家情報院やアメリカの情報機関のための仕事もしていたのか。

その後、韓国では脱北者が、再び北朝鮮に戻ったケースや、二重スパイだったケースも報道された。キムソンジン氏もそうした一人だったのではないか、とも考えたりしたが、真相は本人に聞いてみなければわからない。

最後に会ってから、14年が過ぎた。すでに髪には白いものが混じっているだろう。また、旨いものを食べながら一杯やりたいが、叶わない。

【執筆:フジテレビ FNNプロデュース部長 森安豊一】
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森安豊一
森安豊一

論より証拠。われわれの仕事は、事実の積み上げであり、事実に対して謙虚でなければならない。現場を訪れ、当事者の話を聞く。叶わなければ、現場の近くまで行き、関係者の話を聞く。映像は何にもまして説得力を持つ証拠のひとつだ。ただ、そこに現れているものが、全てでないことも覚えておかなければならない。
1965年福岡県生まれ。
福岡県立東筑高校卒、慶應義塾大学文学部人間関係学科社会学専攻卒。
警察庁担当、ソウル支局特派員、警視庁キャップ、社会部デスク、外信部デスク、FNN推進部デスク、FNNプロデュース部長を経て報道センター室長。
特派員時代は、アフガニスタンや北朝鮮からも報告。