昭和初期、日本統治時代の台湾で教師をしていた熊本・玉名市の高木波恵さんが106歳のときに、当時の教え子を懐かしんで出した手紙が大きな反響を呼んだ。熊本と台湾の絆が生んだ奇跡の実話を紐解く。
台湾で教壇に立った高木波恵さん
2020年2月、熊本・玉名市で暮らす女性がこの世を去った。高木波恵さん、111歳の大往生だった。弔辞を読んだのは、福岡にある台湾総領事館に当たる組織のトップだ。
この記事の画像(16枚)台北駐福岡経済文化弁事処の陳忠正処長(当時)は「あなたは私たちにとって一生忘れられない方です。先生の愛情、熱情を込めた精神を今も台湾の教え子、教え子の子ども、孫さんたちに、そして今、私たち台湾の人の心の中にとめておきます」と弔辞を読んだ。
高木波恵さんは1908年に玉名市に生まれた。日本統治時代の台湾に家族とともに渡り、台中高等女学校を卒業した。教師になり、台湾の子どもたちが通う烏日公学校で1928年から約10年間、教壇に立った。そして、終戦を迎え、熊本に引き揚げた。
109歳で漢詩の一節を読み上げる波恵さん
2018年12月に取材に訪れた際、当時すでに109歳だった波恵さんは次男・保明さんと一緒に「春眠暁を覚えず処々啼鳥を聞く夜来風雨の声花落つること知る多少」と、漢詩の一節読み上げた。
波恵さんは80歳のときに脳こうそくを患ったものの、漢詩や百人一首を書き記すなどして回復した。
2018年12月、福岡にある台湾総領事館に当たる経済文化弁事処の陳忠正処長(当時)が波恵さんの元を訪れた。ふた月前に着任したばかりで、波恵さんと初めて会った。
波恵さんは陳処長に「ジャッパーべ」と、台湾のあいさつで「ご飯食べたか?」と声をかけると、陳処長は「今も台湾語を覚えている。感動しました」と驚いた。
陳処長の前任の戎義俊処長もたびたび波恵さんを訪ねるなど、台湾の外交官がなぜ波恵さんと交流を深めていたのか。話は2015年1月、波恵さんが106歳のときに遡る。
当時の教え子に送った一通の手紙
きっかけは、ある台湾映画が日本で公開されたことだった。『KANO 1931海の向こうの甲子園』。日本統治時代の1931年、台湾の嘉義農林学校野球部が海を渡って夏の甲子園大会に初出場し、準優勝するまでの物語だ。
波恵さんは映画のクライマックスである決勝戦の実況中継を、当時ラジオで聴いていた。教え子たちは今、どうしているだろうか。思い立った波恵さんは娘の恵子さんに代筆してもらい、当時の教え子で88歳になる楊漢宗さん宛てに手紙を出した。
手紙には「春節おめでとうございます。二月十八日、はるか日本国より久方ぶりに楊漢宗様へ。高木波恵満百六歳、お便りを代筆、娘、恵子がお届け致します。母は非常に元気です」と、波恵さんが106歳で元気にしている内容が書かれていた。
しかし、宛先が古い住所だったため、日本に送り返される寸前のところを、台湾の郵便局員たちの尽力で無事、楊さんの元に届いた。波恵さんが生きていたことに教え子たちは驚き、玉名市の波恵さんに自分たちの近況を手紙で伝えた。
そして、2015年9月。学校の創立100周年記念式典で、東京のテレビ会議システムの運営会社の協力で再会を果たした。
波恵先生と台湾の教え子たちの再会
教え子:「高木先生、元気で毎日お暮らしで本当におめでとう」
波恵さん:「生きていてくれてうれしいよ」
教え子:「健康ですか?」
波恵さん:「ありがとう。着物を縫ったこと覚えているか?」
教え子:「体をお元気に大切にしまして、ありがとうございます」
波恵さん:「あなたも元気でね」
80代から90代になった教え子たち。苦しい時代に優しくしてくれた波恵先生。温かいひとときがお互いの心に刻まれていた。
波恵さんの次男・保明さんは「熊本地震の時も、(台湾)政府から『大丈夫でしたか?おうちは大丈夫でしたか?大変心配しております』という電話もいただきました。台湾の皆さんには感謝しかないです。このご縁は時代が変わっても大事にしていきたいと思っています」と話した。
台湾の人々の心に今も生き続ける面影
2020年2月、波恵さんは111歳で亡くなった。ライターの西谷格さんは、波恵さんと教え子たちの再会の模様を台湾で取材し、日本に伝え、本にまとめた。
西谷さんは「歳月の重みというか、自分たちの思い出がすごくいい形で残っているんだなとすごく印象に残りました」と波恵さんと教え子たちの関係を語った。
熊本と台湾の絆が生んだ奇跡の再会。そこから育まれた新たな交流。高木波恵さんの面影は台湾の人々の心に今も生き続けている。
台湾で親日家が多いのも、こういった師弟関係があったことも理由のひとつなのかもしれない。
(テレビ熊本)