長く続いた昭和の時代、人々に夢と感動を与えたプロ野球。そのプロ野球のレジェンド達に徳光和夫さんが切り込むのが「プロ野球レジェン堂」だ。

今回は阪神のレジェンド・掛布雅之さん。

阪神の不動の4番としてホームラン王を3回獲得するなど、ホームランバッターとして開花した理由と、“ソックス”に隠されたエピソードを明かした。

阪神の4番としての系譜

長らく野球を見続けてきた徳光さん。掛布さんの現役時代、ある変化を感じていた。

「言ってみれば掛布さんが入団した時は、それこそ10代〜20代前半ぐらいまで、田淵(幸一・当時の4番)さんが西武ライオンズに行くまでは、中距離ヒッターだと思うんですよ。そこからホームランバッターに変わるでしょ。あれはつまりどういう?」(徳光さん)

「これは田淵さんがトレードでいなくなった時に、最後電話があったんですよ。『俺は縦縞のユニホームを脱ぐ。お前は最後まで、江夏(豊)とか俺のように途中でユニホームを脱ぐなよ。最後まで縦縞のユニホーム着なきゃ駄目だぞ』っていうのが、田淵さんから最後のメッセージだったんです」

当初掛布さんは中距離ヒッターのイメージがあったという(イメージ)
当初掛布さんは中距離ヒッターのイメージがあったという(イメージ)
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当時掛布さんはプロ5年目から6年目に差し掛かるタイミング。年齢は23歳になっていた。

「チームから出ていくってことは、田淵さんとか江夏さんにも責任はあると思うんですよ。でもそうなっちゃ駄目だよっていうメッセージをくれた時に、頭の中に阪神の4番、藤村富美男さんと田淵さんという2人の方が浮かぶんですよね。その2人の共通点ってやっぱりホームランなんですよ」

長尺バット・物干し竿が代名詞の初代ミスタータイガース・藤村富美男、そして王貞治とのホームラン王争いで勝利したこともある田淵幸一。この2人のホームランバッターが掛布さんにとっての“阪神の4番”の姿だった。

「意識はしていなかったと思うんですけども、やっぱり自分の中のどこかに4番としてのホームランという無意識の意識を…、うまく言えませんけども、それが僕に打たせた。48本のホームランで、意識して打ったホームランは1本もないです」

意識を変えたことでホームラン王となった(イメージ)
意識を変えたことでホームラン王となった(イメージ)

いいタイミングで良いスイングをする。これを心がけた結果が1979年のホームラン王獲得に繋がったという。

驚く徳光さんに、掛布さんはもう一人、ホームランバッターとしての才能を開花させてくれた人の名前を挙げた。

バッティングコーチの力

「褒め上手のバッティングコーチが、僕の背中をぐいぐい押してくれたんです。中西(太)さんの存在も、やっぱ僕のホームランには欠かせない存在の1人ですね」

ホームラン王になる前年の1978年には32本のホームランを打っていた掛布さんだが、79年には48本に増える。さらに打率・打点もベスト3に入るなど飛躍の1年となった。

その飛躍の理由こそ、その後阪神の監督にもなる中西コーチが作ったスポンジのボールだったという。

飛躍のきっかけは野球のボールではなくスポンジで作られたボールだった(イメージ)
飛躍のきっかけは野球のボールではなくスポンジで作られたボールだった(イメージ)

「中西さんが、スポンジのボールを作ってくれまして。スポンジのボールって軽いじゃないですか。軽いスポンジのボール打つと手首痛めることありますので、だいぶ振り込んで手首がだいぶもう慣れて、大丈夫だっていう状態まで振り込んで。

そのボールにスピンをかける。バットを入れる角度を中西さんと2人で考えながら。

スポンジのボールが僕のホームラン増やしてくれたんです。反対方向に打つのも、そのスポンジのボールを中西さんは真っ正面から投げてくれますから、投げてくれた時に、右の耳の横を通っていくような形でスポンジのボール打てっていうんで、引っ張るんじゃなくて。

そうすると、ヘッドがちょっと遅れてきますから、打球が上がる。ヘッドが遅れてきたほうがスピンがかかりやすいんですね。その辺りの練習が多分ホームランの数を増やして、これがポイントの1つかもしれません」

当時珍しかった肉体改造に取り組んだ(イメージ)
当時珍しかった肉体改造に取り組んだ(イメージ)

さらに掛布さんは、当時珍しかった肉体改造にも取り組んでいた。当時は、筋肉はスイングの邪魔になるから付けすぎないほうがいいと言われていた時代にも関わらずだ。

「ちょうど僕、このホームラン王取る前の年に、知り合いの方に呼ばれて、ご自宅で食事をする時に、ウエイトリフティングの全日本で入賞された方が来られてたんですね。その方と食事の中で、1回ウエイトトレーニングをしてみませんかって言われたんですよ。

昔は筋肉を付けると筋肉が体を邪魔する、バットが振れなくなるから、あまり筋肉を付けすぎるなって言われてた時代なので。あまりウエイトトレーニングを勧める人はいなかったんですね。でも僕自身もうちょっと体大きくなりたかったので。

『じゃ、一度やってみます』と。『もしも筋肉が付いてちょっと野球に支障が起きたら?』つて聞いたら『また元の体に戻すこともできる』って言われたので」

オフの間、週3日のペースでウエイトトレーニングに励んだ掛布さんは、筋肉隆々にはならずとも一回り体が大きくなり、これが中西コーチとのトレーニングと合わさって、ホームラン王への道へと進んでいった。

ホームラン王より大切な全試合出場

徳光さんとの会話の中で“片付け”の話になった掛布さん。普段家庭では全く片付けはしないと明かした。しかし、野球のソックスだけは別だという。

「ちゃんとしてたのは野球のソックスですね。ゲームで履くソックスは僕、1回しか履かないんですよ」

驚く徳光さんに掛布さんは続ける。

「僕らの時代、シーズンが130試合でしたので、4月、開幕の時にスポーツメーカーの方が130足のソックスをロッカーに持ってきてくれるんですね。それに日付を書くんですよ。
スポーツメーカーの方に130足入るケースを作ってもらってるんですよ、試合で履いて1回洗濯をしたものを入れていくんです」

そのケースが全て埋まると、“全試合出場”の証となる。

毎試合履いた靴下をケースにしまい、全試合出場を目指した(イメージ)
毎試合履いた靴下をケースにしまい、全試合出場を目指した(イメージ)

「なるほど。うわっ、いい話だな」と徳光さんも嬉しそう。

「130足目のソックスを入れられたのが26歳の時だったかな。ホームラン王の24歳の時よりも、その昭和56(1981)年だったと思うんですが、26歳です。130足目のソックスをそのケースに入れて綺麗に収まった時がですね、一番4番としてのなんか責任を果たせたような。勝てませんでしたよ、勝てませんでしたけどゲームを休まなかった」

それが自分で納得の行く4番の姿だった。

勝てなかったとはいえ、全試合出場した上で打率は3割4分1厘、現役生活で最も良い打率となった。その後5年に渡って全試合出場を続けた掛布さん。

それには江夏豊と衣笠祥雄という二人のレジェンドの力もあったという。

食事をしながら江夏・衣笠からもらった言葉が成長に繋がった(イメージ)
食事をしながら江夏・衣笠からもらった言葉が成長に繋がった(イメージ)

「これも裏話なんですけど、広島遠征に行きまして。江夏さんが広島にいたんですね。デーゲームだったんですけど、江夏さんがゲーム終わったら飯食いに来いと。衣笠呼んどくからと。

それで、3人で野球の話をして。江夏さんとバッテリー間のバッターとの勝負みたいな、ボールの使い方だとか、ツーエンドツー、スリーツーからの勝負の仕方、ピッチャー、バッテリーのその気持ちを色々と聞きまして。そういう勝負もあるのかと。

今度は衣笠さんが、『お前は簡単な怪我で休みすぎるよ。俺はお前の大ファンだ』っていうんですね。『お前のホームランに、ほんとに心から拍手を送ってる、掛布ファンだ』って言うんですよ。

『ただ1つお前に注文つけさせてもらうんであれば、ゲーム休むな。あまりいい格好するな』って言われたんですよ。『一生懸命三振しなさいと。一生懸命エラーしなさい』って。『そうしたら今、お前が言っている全試合っていうのは、確実に出られると思うから』と」

連続試合出場記録の日本記録を持っている鉄人・衣笠から言われたこの言葉は重かった。

「あの時もう千何試合か出ていましたから。衣笠さんにそれを言われた時に、なんか自分の中で凄く勇気づけられましてね。それから自分のその野球というものをさらけ出す勇気が持てたんですね。僕、衣笠さんにもすごく感謝しているんですよ。もうエラーしなさい、三振しなさいと。さらけ出しなさいという」

レジェンド同士の知られざる秘話に興奮した徳光さん。これからも「プロ野球レジェン堂」は野球界のレジェンド達から話を聞いていく。

プロ野球レジェン堂
プロ野球レジェン堂

長く続いた「昭和」の時代、人々に夢と感動を与えたプロ野球。
“レジェンド”である名選手に当時の話を聞きます。