長く続いた昭和の時代、人々に夢と感動を与えたプロ野球。そのプロ野球のレジェンド達に徳光和夫さんが切り込むのが「プロ野球レジェン堂」だ。

今回は阪神のレジェンド・掛布雅之さん。

ミスタータイガースが、阪神を選んだ理由と、長嶋茂雄、王貞治らレジェンド達と当時の交流について明かした。

「野球はプロで辞めたい」

「阪神タイガースに拾ってもらったようなものなんですよね」

そう当時を振り返る掛布雅之さん。高校時代は千葉県・習志野高校で4番・ショートとして活躍していた。

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徳光:
あれから半世紀ですよ。

掛布:
そうです、もう今68ですから、そうですね。


高校卒業後は、大学野球か社会人野球の道を選びたいという気持ちがあったものの、自身の中で「プロ野球に対する強い憧れ」があったという掛布さん。父の知り合いを通じて、阪神タイガースの入団テストを受けることになる。

「テストを受けさせていただきまして。高校3年生の夏終わるぐらいですかね。学校を休みまして、10日間ぐらい阪神の二軍の練習に参加したんですよ。

100メートル走ったり、遠投したりだとかじゃなくて、本当に二軍の方たちと一緒に同じメニューをこなすような練習に参加させていただいて。当時のスカウト部長が見ていてくれて、ちょっと面白いから取ろうかみたいな話になったらしいです」

テストとして二軍練習に参加し、才能を見出された(イメージ)
テストとして二軍練習に参加し、才能を見出された(イメージ)

すでに大学野球や社会人野球からも声がかかっていたというが、「(野球は)プロで辞めたい、(プロで)やりたいじゃないですね、プロで辞めさせてくれ」という考えで父を説得し、阪神への入団を決めた。

他にもヤクルトが目をつけていたというが、当時は「バッティングが荒い。これは大学や社会人野球に行ってから」と見送り。その後の掛布さんの活躍をみた球団社長は、見送ったスカウトを叱責したという。

ライバルとの関係と背番号31

ドラフト6位で阪神に入団した掛布さん。初年度の3月、オープン戦で当時のショートとセカンドがチームから離脱したため、バッティングを高く評価していた二軍監督の谷本稔に推薦され、一軍に抜擢される。

一軍初戦で東尾修から二本のヒットを放った(イメージ)
一軍初戦で東尾修から二本のヒットを放った(イメージ)

その最初の試合で、太平洋クラブライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)の東尾修から2本のヒットを打つという結果を出した。高評価を得た掛布さんは、翌日の近鉄バファローズ戦でもメンバーに入ると、4打数4安打という抜群の成績を残す。

「(当時の阪神の)ショートには藤田平さんというもう動かないレギュラーがいるので、バッティングを生かした方がいいというようなことで、サードを中心に練習するようになったんですね」(掛布さん)

しかしサードのポジションを争う相手には、同期入団で中央大学からドラフト1位で入った佐野仙好がいた。自身が「最大のライバル」と呼ぶ佐野さんからポジションを勝ち取り、初年度から一軍に定着した掛布さん。

「僕すごく嬉しかったのは、いつも佐野さんとキャッチボールしていたんですけど、僕が引退を決めた時に『何でお前、俺よりも4つ若いのに俺より先にやめるんだと。それはずるいぞ』って言ったんですよ。『でもカケ、お前がいてくれたから、これはここまでできたんだ』と。『サードのポジション争いした時に、今まで野球人生の中で一番悔しかったの、お前に負けたことだ』って言ったんですよ。初めてですよ、徳光さん」

長嶋や王が活躍していた頃の球場(イメージ)
長嶋や王が活躍していた頃の球場(イメージ)

そんな掛布さんが少年時代に夢中になったのは、やはり長嶋茂雄や王貞治だった。

「テレビも最初から最後まで野球見るような子供じゃなかったんですよね。野球はやるのが好きだったので。だから長嶋さんとか王さんがそろそろ回ってくるなっていう時にチャンネルを変えて。その長嶋さんと王さんを見たら、また違うチャンネル。ええ、そんな子供」

そんな野球少年にとって、その後引退まで15年間に渡ってつけ続けることになる背番号「31」は特別なものだった。

「僕もそれこそ31っていうのは、長嶋さんと王さんとの背番号を一緒につけてるような番号をつけさせていただいてたので、すごく嬉しかったですね」

じつはこの背番号「31」、3年目で3割を打った時に変更を持ちかけられたという。

「ちょうど3番が空いてまして、球団の方から『3番が空いてるけどつけないか』って言われたんですね。でも自分なりに『長嶋さんには自分はなれないだろう』と。僕は僕の野球をやらなきゃ駄目だと、31番を大切に育てていこうという気持ちのほうが強くて、『31番のままで結構ですので』と、断ったことがあります。

嬉しかったんですよ。3番つけられる、でも違うなという。やはり長嶋さんと同じ番号はつけられなかったんですよ。仮に(王貞治の)1番があいて1番をつけろと言われても、僕断ったと思います。だって、つけられないんですよね、自分の気持ち。僕は2つ一緒の背番号をつけてますっていう」

長嶋茂雄からアドバイスの電話

「とにかく長嶋さんに対する憧れが強かったですね」と語る掛布さんは、プロ野球で1年だけ一緒にシーズンを過ごしたことがある。

「巨人戦が初ヒットなんですよ、高橋善正さんから。左中間に抜けたんですね。僕の足だったら当然二塁打なんですけど、長嶋さんが『おいでおいで』みたいな形で構えてるんですよ。

で、僕それ吸い込まれるように走っていって。それで、『アウトですよ』ってタッチされて。長嶋さんにタッチしてもらったっていうのが嬉しくて。もう『ありがとうございます』って言って、ベンチに帰っていったような…」

その時、アウトになったにも関わらずニコニコしながら戻る掛布さんを見て、ベンチは大笑いしていたという。

阪神甲子園球場のグラウンド
阪神甲子園球場のグラウンド

そんな長嶋さんとは、こんなエピソードもあったという。

掛布:
僕が状態が悪いと家に電話かかってきて。もう笑い話ですけど、「バットあるか」って言われて、「ああ、あります」、「構えてごらん」って。徳光さん、電話ですよ。

徳光:
テレビ電話じゃないですよ。

掛布:
「構えてごらん」、「あ、はい」って僕も構えたんですよ。「そうだ。それでいいんだ」っていうんですけど…。多分、長嶋さんの頭の中には、僕のベストのスイングでホームラン打ってるような映像が頭の中にあるんでしょうね。

徳光:
恐らくそうですよね。

掛布:
それで「掛布君、分かるだろう。こうだよ、こうでこうなんだよ。それでいいんだ、振ってごらん」って。振れませんよね。でも振った気持ちになるんですよね。

徳光:
長嶋さんはご自身はスイングの音を聞いて、それで好不調っていうのは見分けていたっていうふうに。


徳光さんから見ても、掛布さんは長嶋さんに随分可愛がられていたそうだ。

一方で、ON砲の王さんとはどういう関係だったのだろうか。

王貞治「あんなバッティングいつ覚えた」

「王さんはですね、一番僕印象に残ってるのが、長嶋さんが引退された時に、王さんの顔がすっごく優しかったんですよ。あの鷹のような目の王さんが、ホームランを打ってサードベース回った時に笑ってるんですよね。僕が1塁ベース行った時に、『今年は楽に野球をやるんだ』みたいなことを、ぼそぼそっと言われているのを聞きました。それぐらい長嶋さんの存在が大きかったんだと思うんですよ。

そういう中で僕が、甲子園でレフト前にヒットを打ったんですね。その時王さんが1塁ベースで『掛布君、あんなバッティングいつ覚えたんだ』って言うわけです。これは若い僕にしてみたら、あの世界の王さんが僕のバッティングを見ていてくれたんだと思うじゃないですか」

王貞治氏
王貞治氏

こう語る掛布さんに、徳光さんは「いや、ずっと見てたみたいですよ」と答え、別の場所でも王さんは掛布さんについて話していたと明かした。

「僕、王さん同世代なんで、一緒にゴルフ行ったりなんかして話すじゃないですか。それで、『印象に残ってる後輩の選手は?』って言ったらもう速攻で掛布さんの名前出てきます」

「そうですか。本当にありがたい話で。
それともう1つはホームラン王取ってから、『掛布君、ホームランの数を増やすためにはバットの数を振ることじゃないよと。ホームランを打てるボールを待つ我慢だ』って言うんですね。いわゆるボールの見極めをちゃんとしなさいと、我慢だよと。
次に来たら振る勇気を持ちなさいと。その次にそれを仕留める技術を身に付けなさいって言われたんですよ」(掛布さん)

それを意識した掛布さんはボールの見極めを大切にして、100個のフォアボールを目指すようにしたという。「ボール球をいくら振ってもホームランは増えないよ」という言葉に、ホームランが打てるボールを待つようにした。

その後、掛布さんは不動の四番打者として3度のホームラン王を獲得。今も阪神の日本人選手球団記録として残る48本の本塁打を打った。

プロ野球レジェン堂
プロ野球レジェン堂

長く続いた「昭和」の時代、人々に夢と感動を与えたプロ野球。
“レジェンド”である名選手に当時の話を聞きます。