いま長崎市は駅前に新しい商業施設が誕生するなど、生まれ変わる街の姿に大きな期待が寄せられている。暮らす人やまちの特色を生かし、時代とともに変遷を遂げる長崎の商業施設や娯楽施設の歴史をたどる。

「“普段使い”の街にしてほしい」

2022年、新しい商業施設がオープンした長崎市新大工町。元々あった百貨店と生鮮食品などの市場が「新大工町ファンスクエア」に生まれ変わった。

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新大工町商店街振興組合で理事長を務める児島正吾さんは「いろいろ商業施設が新しくできたりもしているが特にそんなに意識はしていない。週末におしゃれをして出かけるのは駅とか新しくスタジアムもできるが、新大工町は『普段使い』してほしい」と話す。

地域に愛された商業施設や娯楽施設、多くのスポットがその姿を変えて現在に至っている。 

姿を変えて現在に至る商業施設

1854年に長崎市浜町に創業した「岡政」は、1934年からは百貨店として親しまれていたが、厳しい販売競争の波に乗れず1960年代後半から業績が悪化し、130年余りの歴史に幕を下ろした。

跡地には、約2カ月後に「長崎大丸」がオープン。婦人服ファッション中心の百貨店で地下1階、地上8階建て、売り場面積1,500平方メートルの店内は、ファッション性あふれる商品構成だった。
その後、長崎大丸は2011年に閉店し、現在は「HAMACROSS 411」に生まれ変わった。

人気だった“福田の遊園地”

“福田の遊園地”の愛称で親しまれ、県内随一の人気を誇った遊園地も姿を変えた。

1957年(昭和32年)に開園した長崎遊園地は、3万3,000平方メートルの敷地にジェットコースターや、観覧車などを備えた本格的なレジャー施設だった。

家族連れを中心に長年、長崎市民に親しまれたが、入場者の大幅な減少によりオープンから39年での閉園となった。

待ち合わせの「定番」だった映画館

長崎市梅香崎町の「新世界劇場」は、映画全盛期の1955年(昭和30年)に開館した。

客席数あわせて575の2つのスクリーンで、洋画を中心に上映していた。業界全体の低迷に加え、市内に複合型映画館がオープンしたことなどを理由に2001年1月、45年間の歴史に幕を下ろした。映画館があった場所は、現在はマンションになっている。

繁華街を彩った映画館・長崎市の「ステラ座」は2008年8月、31年の歴史に幕を下ろした。場内に飾られたステンドグラスが話題を呼んだ映画館で「ステラ座前」は待ち合わせ場所の「定番」のひとつだった。

ステンドグラスは茂里町の「TOHOシネマズ」に移され、現在も使われている。

“まちの台所”として親しまれた市場

長崎市の新大工町市場は1949年(昭和24年)に公設市場として開設した。

“まちの台所”として広く市民に親しまれてきたが、同じ建物にあった「長崎玉屋」が2014年2月に、いったん閉店。

市場も店舗の経営者の高齢化や建物の老朽化などにより営業を終了することになった。

“強いつながり”で愛される街へ

当時の「新大工町市場」について、新大工町商店街振興組合の児島正吾理事長は「遊び場だし、市場の人たちにいろんなことを教えてもらって育てられた」と語る。

新大工町の再開発にも携わった児島理事長は、「新大工町は市場・生鮮が中心のまち。再開発自体も“食”というコンセプトでずっとやってきたし、『新大工町市場』という名前をどうしても残したい、玉屋も長崎玉屋をどうしても残したいという思いで再開発をやってきた」と語った。

児島理事長は、店舗が度々入れ替わる大型商業施設よりも“強いつながり”を作りたいと話していて、商店街では自分の店ではない他の店に客を案内するスタッフの姿も見られた。

新大工町商店街振興組合・児島理事長:
お互いがお互いの店を紹介できるというのも1つ、僕は強みだと思う。新大工町は広域からお客さんを呼ぶようなまちではないので、まずは地元の地域の人たちに愛されるということを大前提に、そういう人たちに応援されるようなまちにしていきたい

新たな商業施設の1階は、かつての市場とは異なるが「新大工町市場」の名前が残っている。変わるものと変わらないもの。そこで暮らす人や、まちの特色を生かしながら様々なスポットが誕生、生まれ変わっていく。

(テレビ長崎)

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