8月15日で終戦から78年。神戸で凄惨な空襲を経験したある女性が90歳近くになり、初めて人にその体験を話すことができた。何が女性に語ることを決心させたのか…。

「火の粉を払いながら走った」

京都市に住む亀井信子さん、90歳。戦争に関わる記事には、欠かさず目を通している。

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亀井信子さん:
こういう所でも亡くなっているって思いながら、ウクライナの戦争のことから何か書いたのは切り抜いてはこうして…

信子さん自身も、12歳のときに神戸大空襲を経験した。

1945年、終戦の半年ほど前からアメリカ軍は、神戸の市街地を狙った空襲を繰り返していた。
油を詰めた焼夷弾が大量に投下され、神戸は一面焼け野原になり、7,500人以上が死亡した。

亀井信子さん:
火の粉こうしながら走った。トタンがぶわーっと落ちてくるのをはねのけて走った

九死に一生を得た信子さん。その凄惨な経験を70年以上、誰にも話すことはなかった。

90歳のいま当時を話し出した決意とは

亀井信子さん:
(当時経験したことを)話したいと思っていたけど、自分では広島・長崎、原爆のすごさ…、神戸はあまり取り上げられていないし、遠慮というか申し訳ないというか、そういう気持ちもあった

そんな信子さんの様子をずっと見守って来た娘の村田洋子さん(57)。

信子さんの娘・村田洋子さん:
話したくないっていうのもあったかもしれないけど、「死ぬまでに伝えたい」っていうのはずっと持っていて。本当に戦争を体験している人の言葉はすごく重いから。「書くことはできひん」ってなかなか進まなかった。「それだったら話してみたら?」と言ってみた

娘の言葉に背中を押され、信子さんは、2022年にはじめて人前でマイクに向かった。2023年の7月末にも、緊張した面持ちで言葉を紡ぐ信子さんの姿があった。

戦争の経験を語る亀井信子さん:
背中に赤ちゃんを負ぶったお母さん、子どもを救うために抱えた親子。そういう焼死体が(トラックで)何台も何台もお寺に向かって行った。
「お願いします」と言ってわずかなお米をいただいて。水のようなおかゆでしばらく過ごすことができた。しばらくすると私は高熱と下痢で動けなくなった。
母もずっと看病に疲れて「信ちゃんもう逃げなくていいよ。お母ちゃんとここで2人で寝たまま死んでいこうね」って母に言われた

孫に語る戦争体験 70年過ぎて“語る”ことにした理由

なぜ今、語る決意をしたのか、信子さんにたずねた。

亀井信子さん:
この年で実際に火の粉の中を逃げた人はもう本当に少ないから、生きている人は少ないから

孫の幸太郎さん(23)と百さん(21)。信子さんの経験をしっかりと聞くのは、家族にとっても初めてのことだった。

亀井信子さん:
特攻隊みたいな飛行機で行くの。順番を待っている間に終戦が来た、だから兄貴も助かったんよ

信子さんの孫・村田幸太郎さん:
飛行機の運転を中学でさせるって…考えられへん

信子さんの孫・村田百さん:
直に場面をイメージしてしまう。聞く側もつらいけど、それを実際に体験していて、話す勇気をもって、今この時代に話してくれるのが、すごく貴重な経験をそばでできてると思う

信子さんの話を聞いて、孫の百さんは涙を抑えることができなかった。

亀井信子さん:
やっぱり経験した者がこうしていうことは大事やし、孫も2人こうして受け止めてくれてるのは本当にうれしいしありがたい

今やっと伝えることができる記憶がある。

(関西テレビ「newsランナー」2023年8月15日放送)

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