「このジャラジャラ、なんのためにつけてたの?」
こんなつぶやきとともに、レトロ感あふれる写真がTwitterに投稿され、ちょっとした反響を呼んでいる。
懐かしい手作りインテリア「珠のれん」
写真の「ジャラジャラ」とは、昭和世代には懐かしい「珠のれん」のことを指しているようだ。今どきのZ世代は知らないかもしれないが、昔は居間と台所の間などを「珠のれん」で仕切っている家はよくあった。
紐を通した木の玉同士がぶつかる音が面白くて、子供の頃「ジャラジャラ」揺らして遊んだ思い出がある人も多いのではないだろうか?
調べてみると、そもそも「珠のれん」は“そろばんの町”として知られる兵庫県小野市で昭和25年(1950)に考案されたそうだ。しかし近頃は大きなインテリアショップでも「珠のれん」はなかなかお目にかからない。
現在、日本で「珠のれん」を作っているのは同市にある大正13年(1924)創業の木工品メーカー「ヒョウトク」で、同社によると最後の1軒だという。
電卓の登場で「珠のれん」が誕生した!?
なぜ「珠のれん」は昭和に大ヒットしたのか?そして全盛期はどれだけの需要があったのだろうか?「珠のれん」の歴史に詳しい、同社の社長で現在78歳の近田正義さんに聞いてみた。
――今「珠のれん」を作っているのは「ヒョウトク」だけ?
木材を使った「木珠のれん」は当社だけですね。昔は輸入品があったんですけど、それもここ10年くらいは途絶えているようです。
――ヒョウトクの「珠のれん」のこだわりとは?
木玉だけでは「珠のれん」本来のサラッとした感じが出ないので、木玉と木玉の間に6ミリの小さい樹脂玉を挟んであの爽やかな感じを出しています。
――「珠のれん」を最初に作ったのはヒョウトクなの?
みなさんそれを尋ねますが、どちらかと言えば後発なんです。「珠のれん」を最初に考えた会社は2つ候補があるんですが、どちらも今はなくなってしまいました。
会社の1つがあった古川町は、昔、算盤の玉作りが盛んだった町です。それが、電卓が出てきたら、会社関係、銀行関係みんな電卓に代わってしまいました。算盤の出荷額が減ると、同時に製造する人も仕事がなくなり、「珠のれん」のたまを作ることを考えたわけです。2社のお2人の方が考えて製造して、それから一気に広まったんですね。それが昭和35年(1960)よりもうちょっと早かったかもしれませんが、こういうことなんです。
「珠のれん」は隙間が空いてて空気も行き交う
――「珠のれん」の最盛期は?
大阪万博(1970年)があったぐらいの時期です。「珠のれん」を作る機械が開発されたのが昭和35年ぐらいで、その時はメーカーが15軒ぐらいあったと思います。最盛時は50軒ぐらいになりました。
――現在、ヒョウトク以外のメーカーはどうなった?
残っているのは6社ほどです。6社はすべて出発は算盤屋で、今、算盤だけを作っているところは1社。「珠のれん」をやってるところは私のところだけ。他は木工品を扱ってます。
――「珠のれん」はどうしてヒットした?
昭和30~40年代ぐらいまでは瓦葺きの家とか藁葺の家が主流の時代ですから、そういう和風建築には「珠のれん」が最適だったんです。床の間があって、仏壇があって、夏場はふすまを開けて「珠のれん」をかける。「布ののれん」だと先が見えなくなってしまいますけど、「珠のれん」は隙間が空いてて空気も行き交います。
それが昭和45年後半から50年かけてぐらいに、田舎でも藁葺やら瓦屋根が老朽化して、建て替えで洋風建築に変わっていったんです。今では私の家でも掛け軸なんか掛けてないし、だいぶ様子が変わってきましたね。
最盛期は100億円市場と言われていた
――今「珠のれん」はどのぐらい作ってる?最盛期は?
今は職人さんが減ってしまって、1日にせいぜい3本か4本くらいしかできないんですよ。「珠のれん」の売上は会社全体の3.5%ほどです。材料を集めるのも難しくなったし、製造に携わるスタッフの人もないし、たくさんは製造できません。
今はテレビに映ったり、マスコミに取り上げていただくのが販促になっているのかなと言う感じです。売り込みにも行かないし、月に100本、年間で1000本、そういう状況です。全盛期はそれの100倍ぐらい。だから年間10万本。当時は100億円市場と言われてたんです。
――ネットなどで話題になると「珠のれん」は売れる?
新聞などの取材を受けると「影響がある」と思います。「珠のれん」は、冬場はあまり売れないんですが、最近も一つの柄で30本とか、結構注文がありました。
ちなみに、近田社長に「珠のれん」をいくつ使っているのか聞いたところ、「会社に3本。自宅は1本ですかね?いや、妻が横にいて2本って言ってます」とのことだった。ヒョウトクは来年創業100周年を迎えるという。これからも風情ある「珠のれん」を末永く作り続けていただきたい。