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「本当に眠って、ただ朝方「おいおい」と呼んだだけで、それで他に何もなく苦しみもなく逝ってしまったと」

めざまし8のカメラの前で、涙を浮かべたのは、10月1日に心不全でこの世を去った、アントニオ猪木さんの弟・啓介さん。兄・猪木さんとの最後のやりとりが明かされました。

アントニオ猪木さんの弟・猪木啓介さん:
苦しんで死んだわけじゃないし、本当に眠って。ただ朝方、「おいおい」と呼んだだけでそれで、他に何もなく、苦しみもなにもなく逝ってしまったと、まあ、素晴らしい人生だったんじゃないんですかね。みんなに好かれて幸せに旅立ったんじゃないかと思いますけどね。

亡くなる直前、猪木さんの部屋を訪れた啓介さんは、こう呼び止められたといいます。

アントニオ猪木さんの弟・猪木啓介さん:
兄貴から最後というか、30日の晩ですね。色々と我々遅くまでいて、たまたま兄貴が「ちょっと来い」という合図をしたので。部屋の方に入っていって、横になって「ドアを閉めろ」と言うから、何か俺に言いたいことがあるのかなと思って、ドアを閉めて横に座ったら、何か口をパクパクしていることは事実なんですが、何を言っているのか、ちょっと言葉がはっきりしてないので分からなかったので。「何?」いう質問をしたんですが、そのまま眠るように目をつぶって、たまに目を開けてある場所だけをじーっと見ているので、「あぁ誰かお向かいに来てるのかな」って感じだったんですよね

その数時間後のことでした。

アントニオ猪木さんの弟・猪木啓介さん:
顔を触ったらまだまだぬくもりも普通でしたから、大丈夫なのかなと思って見てたんだけど、息もしてないようだし、先生が来てから、すぐに診断したら死亡しておりますということで、7時40分という時間で死亡診断書を書かれました

啓介さんが見守る中、猪木さんは、静かに息を引き取ったといいます。

「ファンのことはすごく大事に」弟が語る“アントニオ猪木”

弟・啓介さんが初めてメディアに公開したという、猪木さんの幼少期の写真
弟・啓介さんが初めてメディアに公開したという、猪木さんの幼少期の写真

初めてメディアに公開したという、猪木さんの幼少期をとらえた写真。
くりくりとした目と、丸い顔からは、その後の面影はあまり感じられません。

猪木さんは11人きょうだいの六男だった
猪木さんは11人きょうだいの六男だった

11人きょうだいの六男だったという猪木さん。早くに父親を亡くすと、その後、一家でブラジルへと渡り、コーヒー農園で働き、家族を支えていました。

啓介さんが見せてくれたのは、40年ほど前に、ブラジルを再び訪れた時の写真です。

40年ほど前、ブラジルを再び訪れた時の写真
40年ほど前、ブラジルを再び訪れた時の写真

アントニオ猪木さんの弟・猪木啓介さん:
このころみんな若くてね。この間もアントニオもね。俺だってかっこいい時もあったんだよって、自分の闘っているビデオを見ながらね。言っていましたけど。

若かった頃の兄の思い出。

中でも、鮮明に記憶に残っているのは、ファンへの“深い愛情”でした。

アントニオ猪木さんの弟・猪木啓介さん:
ファンに対しての気配りといいますかね。みんなに好まれようと、そういう立ち位置でいつもいたんじゃないかな。だから本当に一緒にどこかに行っても、ファンの人たちがバーッと来ても、僕はなるべく兄貴の隣にはいないようにしてるんですよね。極力、ちょっと離れた所から見てるというか、兄貴もそれをちゃんとわきまえて、僕のことを何をするか見てるんですよね

晩年、闘病生活を公開した際にも「大体見せたくないでしょ、こんなザマを。普通は。でも、あるがままでいいじゃん。こういう状況が分かって、みんなに見てもらって弱い俺をしょうがないじゃん」と語っていたアントニオ猪木さん。

アントニオ猪木さんの弟・猪木啓介さん:
ファンに対して、反対に自分から近寄って、握手なんかしたりしてましたからね。だからファンのことはすごく大事にしていたし、色んな形で前向きに何事も考えて。今回だってまだまだ、寝ながら何かやりたい、そういうことを考えながら寝ていたんじゃないかと思いますけどね

いつもそばには家族の姿が…猪木さんを支えた“妻”の存在

79年の生涯で、4度結婚した猪木さん。最後に連れ添ったのは、2019年に亡くなった田鶴子さんでした。

猪木さんが持病の糖尿病の療養で足繁く通っていたという、青森県十和田市にある蔦温泉。アントニオ猪木さんと20年来の親交があったという、オーナーの丹野智宙さんは、2人のことをこう話します。

株式会社城ヶ倉観光・丹野智宙 代表取締役:
(猪木さんは)やっぱり人を驚かしたり、人を元気にするのが凄く好きな方で、それが生きがいというか

妻の田鶴子さんは、結婚する前からいつもそばにいたといいます。

時には体格差のある猪木さんを支える姿も。

株式会社城ヶ倉観光・丹野智宙 代表取締役:
血糖のコントロールは毎日、毎時間、30分ごとにしてるようなぐらいで、お薬から何からすべてマネージメントされいて、リハビリテーションもそうだし、医療面でもしっかしサポートされていた印象はありますけどね。とにかく命懸けで支えるという一言。最後の方になって猪木会長が「橋本君」って呼ぶんですけどね。「橋本君には感謝してます」ってなんかそういうコメントが出るようになって。「初めてありがとうって言われた」とかって、そんな感じで喜んでいたのは記憶にあります

田鶴子さんを、「橋本くん」と呼んでいたという猪木さん。

田鶴子さんも猪木さんのことを「会長」と呼び、互いに「橋本くん」「会長」と呼び合っていたといいます。

アントニオ猪木さんが2016年に北朝鮮を訪問した際、 カメラマンとして撮影していたのが田鶴子さんでした。取材する側とされる側の関係からスタートした2人ですが、そうした関係が始まって十数年経った、2017年4月に2人は結婚。

株式会社城ヶ倉観光・丹野智宙 代表取締役:
成熟された人間関係の中でご結婚されたんでしょうから、いちいち結婚を契機に呼ぶ名を変えるとかあまりしない方かもしれませんね。どちらかというと、一般的な、皆さんがご想像されるようなカップルというよりは、もう少し「尊敬」という言葉に近いようなふうには見えました

しかし、2019年、猪木さんを支えた田鶴子さんは、がんでこの世を去ってしまいます。残された猪木さんは、ほどなくして、難病の「心アミロイドーシス」を発症しました。

2020年12月、田鶴子さんの石碑の前で両手を合わせながら、猪木さんはこんな言葉をかけていました。

アントニオ猪木さん:
亡くなって1年半が過ぎましたけどね、まさかこんないい場所にこういう碑をね、立ててもらえて。あれから今回は2回目で。たまたま俺も一生懸命頑張って生きてきたけど、世の中は何が起きるかわからない。これから雪がね、積もっていっぱいになると思いますけど。本当に素晴らしい場所で。春は春でいいし、夏は夏でまた涼しいし、秋は紅葉がね、冬はまたこのしんしんと降る雪が素晴らしい、そこで盃を交わしてできたらいいなと思います。それじゃあ安らかに休んでください

(めざまし8 10月3日放送)