戦地で命を落とした旧日本軍の兵士が綴った手紙が、約80年ぶりに滋賀県で見つかった。
手紙の相手は、兵士に想いを寄せていた女性。
過酷な時代を生きた元兵士と、女性の揺れ動く想いの記録をたどった。

滋賀・甲賀市に住む杉本智恵子さん。
大正12年生まれで、今年98歳になった。毎日の30分ほどの散歩が健康の秘訣だ。

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杉本さんの自宅にある蔵から、2020年に古い箱が見つかった。

杉本智恵子さん:
隠してあったんです。『読むべからず』と書いてな。人にも言うべきでないと思いました。秘めていたんですけど、出てきたんです。嬉しいというか、悲しいというか。

戦時中の軍事郵便につき、読むべからず。
その封印を解いてみると、中には、杉本さん宛の35通の手紙が入っていた。

「御父様も御出征のよし、いかに御国の為とはいえ、お寂しいでしょう」と書かれた手紙。
手紙の送り主は、西浦治一郎さん。日本軍の兵士だった。

日中戦争の最中にあった1937年ごろ、杉本さんの通っていた学校では、地元出身の兵士たちに、励ましの手紙を送るという取り組みが行われていた。
先生が担当を割り振った中で、たまたま、杉本さんは21歳の西浦さんに手紙を送ることになった。

杉本智恵子さん:
私は文才家のええ人に当たったなと思って。学ばしていただきました。

1937年、杉本さんの父が出征する時に撮られた写真。
杉本さんに笑顔はない。

杉本智恵子さん:
召集令状、赤紙と言って、これが来たら必ず死を覚悟して行くのでございます。泣いたらあかん、おめでとうって、村じゅうの人が並んで、おめでとうって言うねん。私も赤い顔して泣いていましたけどな。泣いたら未練がましいと。『僕は死にます』と言って、お父さん行かはった。

悲しむ杉本さんを、西浦さんは中国の戦地から手紙で励ましていた。

西浦治一郎さんの手紙:
一番大切なる御父上が、敵の手榴弾の為に名誉の負傷をなされたとの事。御心配の事と思います。自分たちは砲兵である為に、貴女の父上の様な勇ましい戦を演ずる様な事が無いのが残念です。

別の手紙では、西浦さんがいた中国での厳しい戦線の様子も書かれていた。

西浦治一郎さんの手紙:
第一戦友とする同年兵の一人がやられ、屍の山となってしまいまして。
生きて居るのや死んでいるのか解りませんでした。

しかし、返信する便箋に、「死なないで」と書くことはできなかった。
戦時下の手紙は、すべて軍が検閲していたためだ。

杉本智恵子さん:
がんばれ、がんばれしか書けなかった。検閲があるんですね。足を引っ張ることはならんと思っていました。ひどい時代やなと今になって思いまして。

身を案じることができない代わりに、杉本さんは地元の草花を押し花にして手紙に添えた。

杉本智恵子さん:
押し花というのは、花ですやろ。がんばってくれと、国のために。押し花は故郷のな。簡単に綺麗ですわな。他の物は通らない。軍事郵便、通されんことでございます。

西浦治一郎さんの手紙:
貴女の真心の秋の草花も沢山頂きました。尚日誌帳にはさんで持っております。
何日のお便りを拝見しても、美しい郷里の花びら等の物をお入れ下さる、本当に銃後の女性、大和撫子。
毎日一度は必ず貴女の写真を眺めて見る。貴女が何かやさしく慰めの言葉を懸けて呉れる様な気がして。

杉本智恵子さん:
西浦さんからな、手紙が来たら喜んでな。生きてはんねんな、どうぞ長いこと生きてと。やっぱし、この人が帰ってきたら、結婚せなと思っていました。

航空兵を志願…手紙に変化「任務にのみ精神を集中」「あなたに結婚を申し込む意気がない」

しかし、その後 西浦さんは航空兵を志願。
すると、西浦さんの手紙に変化がみられるようになった。

西浦治一郎さんの手紙:
僕はあなたに結婚を申し込む意気が無い。空中勤務者である以上、自分の良心が許さない。
貴女の将来の幸福を心から祈り、任務にのみ精神を集中して、若き日を犠牲にしようと考えたのです。
私たちの戦友が一人二人戦地へ行くと皆んな一緒に行きたい。
一途に御国の為に祖国の礎となる日を待つのみ。

この2カ月後、西浦さんの訃報を知らせる手紙が届いた。
飛行機に乗って、台湾から帰る途中の事故だった。

杉本智恵子さん:
死にたくなくても、死なないとならん宿命やってん、航空兵やな。もう手紙もくれんといてと言われて、なんか涙がこぼれてきてな。やはり、生かされている。今、命があることはありがたいことでございます。

きょうも、生きている。
杉本さんは、毎日感謝の気持ちを夕日に捧げている。

杉本智恵子さん:
ほら、(夕日が)きれいですやんか。ここで拝みます。なんと素晴らしいなと思ってね。こうして、私生きているってことはとてもうれしいの。私、この世の空気が吸えるってことは、なんと幸せ。

(関西テレビ)