4つの市民襲撃事件で殺人などの罪に問われた特定危険指定暴力団「工藤会」トップ、野村悟被告(74)とナンバー2の田上不美夫被告(65)。

福岡地裁は検察側の求刑通り、野村被告に死刑、田上被告に無期懲役の判決を言い渡した。

市民に容赦なく銃口を向け、時に手りゅう弾まで投げ込んだ特定危険指定暴力団「工藤会」。そのトップに君臨した野村悟被告とは…。

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裕福な農家に生まれ、20代前半で「工藤会」入り

桜井福大記者:
住宅街の一角で、ひと際目立つ大きな家。表札には大きな文字で野村と書かれています

野村被告の自宅前(北九州市小倉北区)
野村被告の自宅前(北九州市小倉北区)

北九州市小倉北区にある特定危険指定暴力団「工藤会」の総裁・野村悟被告の自宅。この豪邸が建つ町で、野村被告は生まれ育った。

野村被告の幼なじみ Aさん:
(少年院に)入ったり出たり、入ったり出たりで何回しとるか、あいつは

野村被告の幼なじみ Bさん:
急に悪くなって、なんで“その道”に入ったかは、ちょっと分かりませんね

裕福な農家に生まれた野村被告が「工藤会」に入ったのは、20代前半。兄貴分の誘いで「工藤会」の中核組織「田中組」の一員になった。

その数年後、小倉の街を揺るがす抗争事件が勃発した。

1970年代後半、「工藤会」と新興勢力「草野一家」が衝突。その最中、「田中組」初代組長が「草野一家」の手によって射殺される事件が起きた。

組長の死で「田中組」は新体制になり、野村被告は最高幹部に抜てきされた。

その後、野村被告は「田中組」三代目組長としてのし上がっていった。

組織での地位を確立…絶大な権力を手に

1987年、勢力で圧倒する「草野一家」が「工藤会」を吸収する形で、新組織「工藤連合草野一家」が結成された。

新組織での序列4番目の野村被告は、「草野一家」出身の実力者である溝下秀男氏の下、組織運営に携わっていく。

工藤会対策に携わった元福岡県警の藪正孝氏によると、野村被告と溝下氏には深い因縁があったという。

元福岡県警・藪正孝氏:
溝下総裁は、野村総裁からいくと親の敵なんですね。初代の田中組長を射殺したのは、当時の草野一家極政会の組員たち。極政会の会長が溝下総裁だった。当然ながら不満はあったのではないかなと

元福岡県警・藪正孝氏:
工藤会に残るとするなら、親分・溝下総裁を立て続けるしかない。野村総裁は、溝下総裁に絶対だった

組長の仇である溝下氏に忠誠を誓い、野村被告はさらに組織での地位を確かなものにしていく。その傍ら、野村被告は1998年、港の公共工事への介入を断った元漁協組合長を配下に命じて射殺したとされている。

1999年、「工藤連合草野一家」は「工藤会」に改称。

その翌年、長年トップを務めた溝下氏が組織の運営を退き、野村被告を会長に指名した。野村被告は絶大な権力を手にする。

元福岡県警・藪正孝氏:
野村会長の自宅を捜索したことがある。野村会長がシャワーを浴びて出てきた。そうすると他の組長連中の幹部が、野村会長が出てきたら、へなへなへなと床の上に土下座する

――それを見た野村被告は?

元福岡県警・藪正孝氏:

別に、誰もいないような感じ。当然という感じ。それを見て「あっ、野村会長は工藤会の組長連中にとっても絶対の存在なんだな」と感じた

市民や企業も襲撃…凶悪化する工藤会

野村被告率いる「工藤会」は、凶悪化の一途をたどる。

クラブ襲撃事件(2003年8月)
記者:
北九州市の繁華街の高級クラブに、爆発物のようなものが投げ込まれたようです

2003年には「田中組」一派の組員が、暴追運動の先頭に立つ男性が経営するクラブに手りゅう弾を投げ込む事件が発生した。

防犯カメラの映像(北九州市暴力追放推進会議より)
防犯カメラの映像(北九州市暴力追放推進会議より)

これを皮切りに、「工藤会」による市民や企業を狙った襲撃事件が立て続けに起きた。

そんな中、野村被告にとって唯一絶対の存在だった溝下氏が亡くなった。溝下氏の葬儀には、全国の暴力団関係者など約1000人が参列した。

溝下氏の死後、事件が起きた。溝下氏に近かった元組長たちが相次いで殺されたり、銃撃を受けたりしたのだ。

末松勝巳組長宅銃撃事件(2008年8月)
記者:
玄関に弾痕があります

銃撃された門扉
銃撃された門扉

篠崎一雄元組長射殺事件(2008年7月)
住民:
パンパンと音が聞こえた

事件当時、「工藤会」に所属していた元組員の男性が語った。

――誰がやったとか、そういう話は入ってくる?

元組員の男性:

分かっても言えんですけど。その人が、どういう態度を取っていたかも自分は聞いていますので、やっぱり根に持って、いつか返してやろうと思ってたんでしょうね

「工藤会」5代目襲名(2011年7月)
記者:
黒い車が、続々と入っていきます

溝下氏が亡くなってから3年。野村被告は「工藤会」トップの総裁になり、ナンバー2の会長には腹心の田上不美夫被告、ナンバー3の理事長には田上被告の子分、菊地敬吾被告が指名された。

「工藤会」トップ3が全て田中組出身者という、野村被告の独裁体制が確立したのだ。

5代目 工藤会の体制
5代目 工藤会の体制

元組員の男性:
田中組の中では、(野村被告を)神様のように扱っていたと思いますね。本人は、ドンと思っとんやないですか、北九州の

「特定危険指定暴力団」指定後も市民を襲撃

まさに、わが世の春を謳歌する野村被告。しかし…。

福岡県警元警部銃撃事件ニュース(2012年4月)
アナウンサー:
北九州小倉南区で元警察官の男性が銃撃されました

2012年、野村被告は配下に指示し、恨みを抱いていた福岡県警のOBを銃撃したとされている。事態を重く見た警察庁は、全国の警察から北九州市に捜査員を派遣する異例の対応をとった。

これに加えて、国も暴力団対策法を改正。「工藤会」を全国の指定暴力団の中でも特に凶悪な組織として、「特定危険指定暴力団」に指定したのだ。

「工藤会」は徐々に追い詰められていった。ところが野村被告はこれを顧みず、配下に指示し、2013年に個人的な恨みから女性看護師を。その翌年には利権獲得のため、歯科医師事件を襲撃させたとされている。

そして…。

頂上作戦ニュース(2014年9月11日)
記者:
組員たちが、礼をして(野村総裁の乗った車を)見送っています

福岡県警の内部資料によると、野村被告が組織の実権を握った2000年以降、県内で発生した襲撃事件は113件起きていて、県警はこのほとんどを「工藤会」による犯行とみている。

幾度となく市民を襲い、街を恐怖に陥れた「工藤会」。死刑判決を受けた野村被告は今、何を思うのか―。

(テレビ西日本)

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