マイページ
東日本大震災で家族5人を亡くした父と子「世界で一番幸せな親子だと思った」二人三脚で歩んだ15年の月日|FNNプライムオンライン
わすれない 3.11

東日本大震災で家族5人を亡くした父と子「世界で一番幸せな親子だと思った」二人三脚で歩んだ15年の月日

Google ニュース プリファードソース

「もっと、けんかがしたかった」 涙を流して読んだ家族への思い

追悼式で手紙を読み上げる千葉瑛太さん(当時10歳)
追悼式で手紙を読み上げる千葉瑛太さん(当時10歳)
この記事の画像(11枚)

震災の発生から約7カ月後の2011年10月。
南気仙沼地区の追悼式で、当時10歳の千葉瑛太さんは、亡くなった家族に宛てたお別れの手紙を読み上げた。
津波で母・美奈子さん、妹のくるみちゃんと祐未ちゃん、祖父の宏一さん、祖母の美代子さんの5人を一度に失った。瑛太さんの言葉は、あまりに切実だった。

千葉瑛太さん(当時10歳): 
ママ、仕事をしていたのに、いつもリトルの送り迎えや、学校の行事に参加してくれてありがとう。旅行にもたくさん行ったね。まだまだたくさん行きたかったのに。くるみ、4月から小学校だったね。祐未も幼稚園を目指してあいさつの練習をしていたのに。もっともっと、けんかがしたかったです。

涙しながら手紙を読む瑛太さんに、父・清英さんはそっと寄り添った
涙しながら手紙を読む瑛太さんに、父・清英さんはそっと寄り添った

最後に瑛太さんは「千葉家の家族に生まれてきてよかったです。ありがとう」と結んだ。
瑛太さんは涙をこらえきれず、父・清英さんは、その頭をそっとなでた。

一変した生活 仮設住宅で始まった2人暮らし

父と子2人の食卓
父と子2人の食卓

親子は仮設住宅で暮らし始めた。
震災前、家事には無縁だった清英さんが、慣れない手つきで料理を作る。洗濯や掃除、あらゆる家事をこなしながら、外では仕事に奔走した。

当たり前のように来る毎日。だからこそ清英さんが感じていたのは、拭い去ることのできない喪失感だった

千葉清英さん:
 お母さんたちがみんないるわけだよ。父親よりも母親だから。どうしてもかなわない母親には。

震災発生から1年 インタビューに答えてくれた瑛太さん
震災発生から1年 インタビューに答えてくれた瑛太さん

一方、瑛太さんは、震災直後からほとんど感情を表に出さなかった。
震災発生から1年後、取材で胸の内を明かしてくれていた。

千葉瑛太さん:
(母や妹に会いたいと思うことは)もうない、このごろない。

瑛太さんが家族の死を受け入れていたようにも見えたが、清英さんは、息子の本音が見えないことに苦悩していた。

千葉清英さん:
吹っ切れているとは言うが、中身までは分からない。余計につらい思いをさせちゃっているのかなとか、しっかりしすぎているところに、私が甘えちゃっている部分もある。本当は子供だったら子供らしさを前面に出させてあげればいいが、そうでなくなっちゃっている。それを思うと自分もつらくなる。

野球がつないだ親子の絆 「命を懸けても守りたかった約束」

2人をつなぎ止めたキャッチボール
2人をつなぎ止めたキャッチボール

絶望の淵にいた2人をつなぎ止めたのは、キャッチボールだった。
親子で向き合う時間が、自然と生まれていた。

ある日、瑛太さんは清英さんにつぶやいた。
「気仙沼にバッティングセンターを作ってよ」
たわいない日常会話の中の一言だったが、清英さんはこの言葉を「命を懸けても守るべき約束」と受け止めた。全国から支援を募り、奔走した末、本当に気仙沼市にバッティングセンターを建設した。

完成したバッティングセンターの初打席に立った瑛太さん
完成したバッティングセンターの初打席に立った瑛太さん

千葉清英さん:
とにかく息子に感謝しています。私自身の生き方を変えてくれた。

24歳になったいま 見えてきた父の姿

震災発生から15年、瑛太さんは東京で働いている
震災発生から15年、瑛太さんは東京で働いている

瑛太さんはその後、高校進学を機に故郷・気仙沼を離れ、一人上京した。
都内で生活を始めてから9年が経った。
親元を離れ、自立した生活を送る中で、初めて見えてきたものがあった。

千葉瑛太さん(現在24歳):
大人になり、自分で自分の責任を持って日々向き合っていると、疲れて寝たい日もある。それでも自分が当時見ていた親父の背中は、疲れていてもバッティングセンターの建設のために夜な夜な動いていたり、自分が野球の試合があると背番号を縫ってくれたり。それをいま思うと、走り続けるのはすごいと思う。

墓前で2人、家族に手を合わせた
墓前で2人、家族に手を合わせた

2026年2月末、瑛太さんは帰省し、清英さんと家族5人が眠る墓前に立った。
この日は、妹・祐未ちゃんの誕生日の翌日。
「ちゃんと覚えているよ」とお菓子を供えた。
久しぶりに帰ってきたこと。前に進み続ける途中で倒れそうになったら助けてほしいこと。
そんな思いを家族に報告した。

「世界で一番幸せな親子」の時間

仮設住宅で父と子2人で過ごした日々も、かけがえのない時間だ
仮設住宅で父と子2人で過ごした日々も、かけがえのない時間だ

かつて仮設住宅で「一枚の布団」に並んで寝ていた父と子。がむしゃらに生きるしかなかったあの時間はいま、2人にとってかけがえのない時間になっている

千葉清英さん:
仮設住宅で一枚の布団でずっと一緒に寝てきたという思いが強くて、はたから見た思いと当事者の思いって全く違う。私なんかは逆に世界で一番幸せな親子なんじゃないかってぐらいに、当時思っていた。

千葉瑛太さん:
日々葛藤も苦しみも、それも乗り越えようと頑張っている姿。それで親孝行だと思って、特に考えずに楽しく生きている。

15年前、失ったものはあまりに大きかった。
それでもいま…「楽しく生きている」
24歳になった瑛太さんが、父親と亡き家族に伝えたい思いだ。

仙台放送
仙台放送

宮城の最新ニュース、身近な話題、災害や事故の速報などを発信します。

  • 1
  • 2
関連記事
わすれない 3.11の他の記事
東大特任教授から燻製職人へ 震災を機に岩手へ移住、「岩手大槌サーモン」で地域再生に挑む
東大特任教授から燻製職人へ 震災を機に岩手へ移住、「岩手大槌サーモン」で地域再生に挑む
ライフ
「教員として覚悟を持たざるを得なかった」 原発事故での避難 放射線測定から始まった野菜作り…校長が問い続けた“この地域だからできる学び”
「教員として覚悟を持たざるを得なかった」 原発事故での避難 放射線測定から始まった野菜作り…校長が問い続けた“この地域だからできる学び”
都道府県
旧熊町小学校「娘の生きた痕跡がここに」 震災遺構か解体か 立ち入りが制限された区域と巨額の費用 震災の記憶をどう残すか
旧熊町小学校「娘の生きた痕跡がここに」 震災遺構か解体か 立ち入りが制限された区域と巨額の費用 震災の記憶をどう残すか
都道府県
「自分の代で終わらせられない」 原発事故から15年 大堀相馬焼「いかりや窯」が踏み出した復活への一歩
「自分の代で終わらせられない」 原発事故から15年 大堀相馬焼「いかりや窯」が踏み出した復活への一歩
都道府県
一覧ページへ
×