「もっと、けんかがしたかった」 涙を流して読んだ家族への思い
震災の発生から約7カ月後の2011年10月。
南気仙沼地区の追悼式で、当時10歳の千葉瑛太さんは、亡くなった家族に宛てたお別れの手紙を読み上げた。
津波で母・美奈子さん、妹のくるみちゃんと祐未ちゃん、祖父の宏一さん、祖母の美代子さんの5人を一度に失った。瑛太さんの言葉は、あまりに切実だった。
千葉瑛太さん(当時10歳):
ママ、仕事をしていたのに、いつもリトルの送り迎えや、学校の行事に参加してくれてありがとう。旅行にもたくさん行ったね。まだまだたくさん行きたかったのに。くるみ、4月から小学校だったね。祐未も幼稚園を目指してあいさつの練習をしていたのに。もっともっと、けんかがしたかったです。
最後に瑛太さんは「千葉家の家族に生まれてきてよかったです。ありがとう」と結んだ。
瑛太さんは涙をこらえきれず、父・清英さんは、その頭をそっとなでた。
一変した生活 仮設住宅で始まった2人暮らし
親子は仮設住宅で暮らし始めた。
震災前、家事には無縁だった清英さんが、慣れない手つきで料理を作る。洗濯や掃除、あらゆる家事をこなしながら、外では仕事に奔走した。
当たり前のように来る毎日。だからこそ清英さんが感じていたのは、拭い去ることのできない喪失感だった
千葉清英さん:
お母さんたちがみんないるわけだよ。父親よりも母親だから。どうしてもかなわない母親には。
一方、瑛太さんは、震災直後からほとんど感情を表に出さなかった。
震災発生から1年後、取材で胸の内を明かしてくれていた。
千葉瑛太さん:
(母や妹に会いたいと思うことは)もうない、このごろない。
瑛太さんが家族の死を受け入れていたようにも見えたが、清英さんは、息子の本音が見えないことに苦悩していた。
千葉清英さん:
吹っ切れているとは言うが、中身までは分からない。余計につらい思いをさせちゃっているのかなとか、しっかりしすぎているところに、私が甘えちゃっている部分もある。本当は子供だったら子供らしさを前面に出させてあげればいいが、そうでなくなっちゃっている。それを思うと自分もつらくなる。
野球がつないだ親子の絆 「命を懸けても守りたかった約束」
絶望の淵にいた2人をつなぎ止めたのは、キャッチボールだった。
親子で向き合う時間が、自然と生まれていた。
ある日、瑛太さんは清英さんにつぶやいた。
「気仙沼にバッティングセンターを作ってよ」
たわいない日常会話の中の一言だったが、清英さんはこの言葉を「命を懸けても守るべき約束」と受け止めた。全国から支援を募り、奔走した末、本当に気仙沼市にバッティングセンターを建設した。
千葉清英さん:
とにかく息子に感謝しています。私自身の生き方を変えてくれた。
24歳になったいま 見えてきた父の姿
瑛太さんはその後、高校進学を機に故郷・気仙沼を離れ、一人上京した。
都内で生活を始めてから9年が経った。
親元を離れ、自立した生活を送る中で、初めて見えてきたものがあった。
千葉瑛太さん(現在24歳):
大人になり、自分で自分の責任を持って日々向き合っていると、疲れて寝たい日もある。それでも自分が当時見ていた親父の背中は、疲れていてもバッティングセンターの建設のために夜な夜な動いていたり、自分が野球の試合があると背番号を縫ってくれたり。それをいま思うと、走り続けるのはすごいと思う。
2026年2月末、瑛太さんは帰省し、清英さんと家族5人が眠る墓前に立った。
この日は、妹・祐未ちゃんの誕生日の翌日。
「ちゃんと覚えているよ」とお菓子を供えた。
久しぶりに帰ってきたこと。前に進み続ける途中で倒れそうになったら助けてほしいこと。
そんな思いを家族に報告した。
「世界で一番幸せな親子」の時間
かつて仮設住宅で「一枚の布団」に並んで寝ていた父と子。がむしゃらに生きるしかなかったあの時間はいま、2人にとってかけがえのない時間になっている
千葉清英さん:
仮設住宅で一枚の布団でずっと一緒に寝てきたという思いが強くて、はたから見た思いと当事者の思いって全く違う。私なんかは逆に世界で一番幸せな親子なんじゃないかってぐらいに、当時思っていた。
千葉瑛太さん:
日々葛藤も苦しみも、それも乗り越えようと頑張っている姿。それで親孝行だと思って、特に考えずに楽しく生きている。

15年前、失ったものはあまりに大きかった。
それでもいま…「楽しく生きている」
24歳になった瑛太さんが、父親と亡き家族に伝えたい思いだ。
