15年前の3月11日、筆者は特派員としてニューヨークに駐在していた。アメリカのテレビから流れてくる津波の映像は、現実のものとは思えなかった。

アメリカで伝えられた「死の波」

アメリカで日本のニュースが1面を飾ることは稀だ。あのときは新聞各紙が一斉に津波の脅威を伝え、日本から届くニュース映像は「寒さの中、礼儀正しく行列を作る日本人」「避難所で我慢強く過ごす日本人」「物資不足の被災地」などで、原子力発電所の事故についての情報は多くなかった。

NY市内のスーパーマーケットにずらりと並ぶ飲料水 2011年3月(筆者撮影)
NY市内のスーパーマーケットにずらりと並ぶ飲料水 2011年3月(筆者撮影)
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極寒の被災地だけでなく、日本各地の店舗から水や保存食が消え、空っぽの棚の映像がと取り沙汰されていたのに、NYのスーパーは当然のことながら物資にあふれていて、何も出来ない自分がもどかしかった。

福島県大熊町の見晴台から見た福島第一原発(1~6号機) 作業用のクレーンが立ち並ぶ 手前の“盛り土”は除染に伴い発生した土壌を保管する「中間貯蔵施設」(筆者撮影)
福島県大熊町の見晴台から見た福島第一原発(1~6号機) 作業用のクレーンが立ち並ぶ 手前の“盛り土”は除染に伴い発生した土壌を保管する「中間貯蔵施設」(筆者撮影)

日本の被災地取材ができない代わりに、できる限りアメリカ国内の原発や、地熱、風力、水力の発電所を取材した。

廃炉完了は事故から40年の2051年を目指し…

あれから15年になるのを前に2月10日、日本記者クラブの取材団に参加し、福島第一原発を訪れた。損傷した1~4号機は大型カバーで覆われ、津波や爆発による傷跡は見えなくなっていた。

東日本大震災・原子力災害伝承館(双葉町)に展示されている福島第一原発のジオラマ
東日本大震災・原子力災害伝承館(双葉町)に展示されている福島第一原発のジオラマ

また、いわゆる“防護服”を着ず、普通の服装や靴で歩ける「マイシューズ・エリア」が拡大していて、時間の流れを感じた。

アメリカ方式だった「地下に非常電源」

福島第一原発には1号機から6号機まであり、最初に作られた1号機はアメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック)製。その後に東芝や日立など、日本のメーカーが2号機以降を作ったが、同じ設計を踏襲した。
「アメリカ方式」は竜巻やハリケーンに備えて非常用発電機を地下に置くのが基本。福島第一原発は「アメリカ式設計」をそのまま採用した。

第5号機・格納容器内で取材団に説明する廃炉コミュニケーションセンター・リスクコミュニケーターの木元崇宏さん 日本記者クラブ取材団・代表撮影
第5号機・格納容器内で取材団に説明する廃炉コミュニケーションセンター・リスクコミュニケーターの木元崇宏さん 日本記者クラブ取材団・代表撮影

もうひとつ、非常用発電機を地下に設置した理由は「耐震」だった。地震対策として「重いものは地下に置く」が原則だった。

言い訳にした「想定外」 足りなかったのは「イマジネーション」

取材団を案内してくれた木元崇宏さん(58)も「建物は地震には耐えた。でも津波は想定外だった」と振り返った。

そう。今でも東京電力や日本政府の会見から聞こえてくるのは、「想定外」という言い訳に聞こえる言葉だ。逆にアメリカ各地の発電所を取材して印象に残ったのは「そこまでやるか!」と言いたくなるほどの「イマジネーション (想像力)」だった。福島第一原発に最も足りなかったのは、この「イマジネーション」だったのではないだろうか。

米・南部アラバマ州の原発にて(2011年5月) テネシー川に隣接するため、扉の回りには浸水防止用のゴムを設置して密閉
米・南部アラバマ州の原発にて(2011年5月) テネシー川に隣接するため、扉の回りには浸水防止用のゴムを設置して密閉

アメリカの原発では海から10Km以上離れていても「洪水対策」として非常用電源が数カ所に設置され、ジェネレーター用の燃料も最低7日分が分散して保管されていた。また、火災に備えて人工湖を作ったり、構内の階段にはホースが張り巡らされ、場合によっては作業員の避難用スロープにも利用されることを想定していた。

サウステキサス・プロジェクト原子力発電所の燃料プール(2011年5月) 使用済み燃料棒の沈むプールの水面は不気味にゆらゆら揺れて見えた
サウステキサス・プロジェクト原子力発電所の燃料プール(2011年5月) 使用済み燃料棒の沈むプールの水面は不気味にゆらゆら揺れて見えた

また、最大の懸案は「テロ対策」で、作業員のメンタルヘルスケアにも徹底して取り組んでいた。取材のため原発に入るまで、我々“外国人”は1カ月以上の「身元審査」を受けたのは言うまでもない。

「おごりと過信があった」担当者が振り返る

案内役の木元さんに「福島第一原発に足りなかったのはイマジネーションじゃないですか?」と聞いてみた。新潟県の柏崎刈羽原発の建設に携わり、震災当日は福島第二原発にいた木元さんは少し考えて、「おごりと過信があった」ときっぱり答えた。「それまで積み上げたものがむなしかった」と。
さらに「100点というのは、その時点の想定内での100点。想定外のことが起きると全く違う」「ずっと原発に携わってきた者として、ここまで重厚で、バックアップを備えたものは事故を起こしようがないと思っていた。『何かあったら建屋に逃げ込めばいい』とすら思っていた」と振り返った。

固体廃棄物貯蔵庫前で説明する木元さん  現在、がれきなどを一時保管するための第11棟を建設中だ(代表撮影)
固体廃棄物貯蔵庫前で説明する木元さん  現在、がれきなどを一時保管するための第11棟を建設中だ(代表撮影)

そんな木元さんも15年たって考えが変わったという。
震災までは「壊れない設備」を一生懸命作っていたが、今は「壊れたらどうするか」を考えるべきだと考えている。また震災前は“安全神話”の中で、周辺住民にリスクを伝えるジレンマを感じていたが、今では「これだけのバックアップがある。こうしたリスクがあるけれど、こう対処する」という説明に変わったそうだ。

東日本大震災・原子力災害伝承館(双葉町) 津波被害で原型をとどめない消防車と双葉町内に設置されていた標語パネルの実物大レプリカ(筆者撮影)
東日本大震災・原子力災害伝承館(双葉町) 津波被害で原型をとどめない消防車と双葉町内に設置されていた標語パネルの実物大レプリカ(筆者撮影)

それでも、生活基盤の一つとして、電力を届ける必要がある。そのためには、まだ原子力が必要だという考えは変わらない。

廃炉への道は遠くて険しい

それにしても、残された課題は多すぎる。廃炉までには推計880トンの高線量のデブリを回収しなくてはならない。さらに、放射性物質が付着した土壌や草木などを除去する際に発生した除染土壌やがれき1400万㎥(東京ドーム11杯分)を2045年までに県外で最終処分するのが国の約束だ。廃炉作業が完了し、双葉町と大熊町にまたがる広大な敷地を再利用できるまでに100~300年かかるとの推計がある。
一度暴れ出した「核」の制御と後始末は途方もなく難しく、廃炉の最終形はまだ見えない。

米・テキサス州の原発周辺に設置された「ワニ注意」の標識(筆者撮影)
米・テキサス州の原発周辺に設置された「ワニ注意」の標識(筆者撮影)

話はアメリカに戻る。取材したテキサス州の原発は海から15Km以上離れている。それでも洪水や津波に備え、非常用電源は3階に相当する高さに配置していた。

そして火災対策として、すぐ横に「人工湖」(芦ノ湖の4倍の貯水量)を作っている。

原発周辺では「ワニ注意」の標識をいくつも見かけた。担当者に聞くと、自信たっぷりにこう答えた「もちろん、ワニへの備えも万全だよ」と。

中本智代子
中本智代子

フジテレビ報道局 上席解説委員
チリ生まれ メキシコ・スペイン育ち。妹弟とのケンカはスペイン語。
2010年から4年間ニューヨーク特派員。ペルー日本大使公邸占拠事件(1996年)やチリ鉱山落盤事故(2010年)などを取材。フィリピン・ドゥテルテ大統領、アウンサンスーチー氏インタビューなど。
名古屋は行ったことないがドラゴンズファン。日本史と日本地図は苦手。