新たな災害に向き合うために…東日本大震災を経験した立場の異なる若者たちの共通の思いとは?【前半】

カテゴリ:国内

  • 幼い頃に東日本大震災を経験した若者たちが経験したこと今の思いを語る
  • 当時小4で両親を亡くした女性は自分ができることはないかと語り部を始めた
  • 立場の異なる若者たちの共通の思いは「未来のために、命を守りたい」だった

2019年8月11日。東日本大震災の発生から8年5カ月となったこの日、幼い頃に震災を経験した若者たちが東京に集い、今の思いを語り合った。

地元で被災し、そのまま地元に残っている子、進学で地元を離れた子、関東に住んでいながら、ボランティア活動で東北を訪ねる子。立場の異なる青年たちが一堂に集って語り合った時、最後に見えてきたのは共通の思い、「未来のために、命を守りたい」だった。

若者トークinTOKYO 東京都品川区

東京都品川区大井。「若者トークinTOKYO」が開催された。宮城県石巻市に拠点を置き、震災伝承活動に取り組む「3.11メモリアルネットワーク」が主催したもの。
震災の被害にあった子供達が、時がたって成長し、あの日の出来事と向き合い、話をしたり様々な活動をするようになった。そうした若者たちが2018年3月に石巻市で集い、若者トークの第一回が開催された。その後、東松島市や名取市閖上、気仙沼市などで回を重ね、新たな参加者を加えて来た。

同じ津波を受けても、色々な向き合い方がある事を若者達は互いに知った。そして相手を尊重し、連携した。その広がりが7回目の今回、被災地を離れて都内での開催に結び付いた
トークは2部制で、1部は一人ずつ活動内容を紹介し、2部は座談会形式で話し合った。

【参加者】
永沼悠斗さん(石巻市 震災当時、高校1年生)
高橋さつきさん(東松島市、当時小学4年生)
武山ひかるさん(東松島市、当時小学4年生)
只野哲也さん(石巻市、当時小学5年生)
姫野愛菜さん(埼玉県川越市、当時小学5年生)
池谷賢人さん(神奈川県相模原市、当時中学2年生)
雁部那由多さん(東松島市、当時小学5年生)

司会:阿部こころさん(女川町、当時小学6年生)
ファシリテーター:佐藤敏郎さん(元中学校教員。3.11メモリアルネットワーク)

司会:阿部こころさん      ファシリテーター:佐藤敏郎さん

被災地の教訓が皆さんに伝わりきっているか

永沼悠斗さんは高校1年時に被災。石巻市長面地区に住んでいたが、津波で家を流され、当時小学校2年生だった弟、祖母、曾祖母を亡くした。現在、大川伝承の会で毎月一回語り部をしたり、他県から見学に来た人達に大川地区の紹介をしている。

永沼悠斗さん(震災当時高校1年生 石巻市 大川伝承の会所属)

永沼悠斗さん:
去年、西日本災害ボランティアに行かせてもらいました。愛媛県西予市というところでダムの決壊があって、5名の方の命が奪われた所ですけども、どうしても行きたいと思って行かせてもらったんです。そこでも語り部の活動をさせてもらいました。被災した地域に入って話すということはすごく意味のあることだなと気づかせてくれました。新たな被災地の人にとっては、これから進む未来で、それをちょっとでも想像させてあげるのが良い事なんだな、っていうのを感じました。被災地の問題は、全国共通の問題です。被災地の様々な問題を解決しようと取り組むのは、「語り部だから、防災をやっているから考える事」ではありません。自分としては、語り部の伝承活動が、聞いてくれた人に「伝わりきっているか」、と言う事にこだわりたいと思っています。

大切な人を亡くしてほしくないから、私の体験を話す

高橋さつきさんは東松島市立大曲小学校4年生の時に被災。小学校に避難してきた両親が、出産準備の荷物を取りに自宅に戻ったところで津波に遭遇してしまう。引き留められなかった後悔が、高橋さんを語らせる。中学3年から、TTT(TSUNAGU・ティーンエイジャー・ツアーガイド東松島)で活動。現在、都内の専門学校に通う。

高橋さつきさん(震災当時小学4年生 東松島市 TSUNAGU Teennager Tourguide所属)

高橋さつきさん:
地震の後、すぐに両親が小学校に迎えに来たんですが、母親が1カ月後に赤ちゃんが生まれる、お腹に命がある状態でした。これから避難生活が続いたら、1カ月くらい家に帰れないと考えていたと思います。それで、家にある赤ちゃんのための荷物を取りに行くから、さつきはここで待ってて、と言われました。私、大曲小学校に置いて行かれたのですが引き止める事が出来ませんでした。両親を亡くしました。引き止めることができなかった後悔があります。今後、生きていく上で何ができるかという事で、語り部を始めました。私みたいに、大切な人を亡くして欲しくない。

避難所で子ども達は役割を求めている

武山ひかるさんは東松島市立大曲小学校4年生で被災。
高校1年生の時からTTT(TSUNAGU・ティーンエイジャー・ツアーガイド東松島)で活動。石巻市内の高校を卒業後、群馬県の大学に進学。

武山ひかるさん(震災当時小学4年生 東松島市 TSUNAGU Teennager Tourguide所属)

武山ひかるさん:
私は避難所を三つ転々として、その中で一番つらかったのは、自分を必要としてくれない事でした。大人は家の片付けをしなくてはいけない中で、子どもたちは危ないから避難所で待っててね、とされるのがつらかった。今思えば、大人は私の身を案じて、そうしたのだろうって分かるんですが、役割を与えてくれたらよかったのに、と思います。この写真は東松島市内にある野蒜小学校という所の着衣泳の訓練の様子です。この着衣会を毎年夏にやっていたおかげで、波に流されてしまった当時小学校6年生の女の子が、水が来たら着衣泳で泳ぐんだっけ、と思い出して助かったのです。何かあった時、意識があれば災害が起きた時に役に立つのです。私は今たくさんの方から支援を頂き、小学生向けに絵本を書いています。私の体験や高橋さつきさんの体験などを含めて絵本を制作したいなって思っています。出来るだけ若い世代に震災の事、震災が起きたら自分には何ができるか、身を守れるか、などを自分達の活動の中で伝えて行けたらいいなと思います。

司会 阿部こころさん:
武山さんと高橋さんはツナグ・ティーンエイジャー・ツアーガイドという活動をしているという事ですが、お互いどんな存在ですか?

司会 阿部こころさん(震災当時小学6年生 女川町)

武山ひかるさん:
さつきが小学校の時に転校して来てからずっと仲がいいです。一緒にいて気のおけない、一緒にいて楽しいし、何かあったら助けられるような親友かな?

高橋さつきさん:
私の中では、もしかしたら家族より支えになる人なんじゃないかな。

司会 阿部こころさん:
お互いに支えあってきているという事ですね。

震災前の大川小学校の姿も伝えて行く

只野哲也さんは児童教員合わせて84人が津波の犠牲となった石巻市立大川小学校で、奇跡的に生還した一人。当時小学5年生。あの日、何があったのかを伝え続けている。

只野哲也さん(震災当時小学5年生 石巻市 大川伝承の会所属)

只野哲也さん:
自分は震災当時、2階の5年生の教室で地震にあいました。帰りの会をしている最中で、全員でさよならの挨拶をする直前に大きな揺れが襲ってきました。地震が収まって校庭にすぐ避難して、そこまではスムーズに動いたんです。そこから津波が到達したのは午後3時37分で、その1分前に避難行動を開始します。それまでの51分間、校庭で待機する事になります。地震が起きた後なので、低学年の子の中には気分が悪くて泣いている子や嘔吐している子がいて、大変な状態でした。自分は高学年だったので、そうした子達を励ましたり、慰めたりして過ごしていました。小学校6年生の男の子が何人か、先生と「裏山に逃げた方がいいんじゃないか」と言い争っている様子も自分は見ていて、その時自分は「裏山に逃げる」っていう考えは全くなかったんです。51分間校庭にいて、教頭先生が三角地帯(交差点が三角形のような形をしているため、そう呼ばれていた)に避難する、と指示して避難を開始しました。学校のそばの交流会館の駐車場の前にさしかかった時、教頭先生が県道の方から走ってきて、津波来ているから早く避難して下さいと指示されました。民家の敷地を通って県道の方に出たところ、目の前にある木造の民家が土煙を上げて砕け散るのが見えました。その時は津波や水は見えなかったのですが、感覚的に「ここにいたら死んでしまう」と思って、すぐに来た道を引き返しました。ダッシュで山の斜面を駆け上がり、3メートルぐらい上がった所で校舎側を振り返ると、まだ津波は見えませんでした。「もう少し上がれば津波に飲まれないぞ、助かるぞ」と思い、もう一回、正面の山の斜面の方を向いた時に、斜面に叩きつけられると言うか、後ろから何十人もの大勢の人にのしかかられているような圧力が自分の体にかかって来ました。そこで何10分経ったのか分かりませんが、気が付いた時には自分が登った斜面よりもさらに上の三角地帯側の斜面に打ち上げられていました。気を失っている間も流されていたのだと思います。その後、竹やぶの方で暖をとっている人達がいたので、そちらに移動して一晩そのままで過ごしました。真っ暗で何も見えませんでしたが、役場の職員の方がライターを持っていたので、それで火をつけて暖をとっていました。それがなかったら凍死していたかもしれません。服も全部濡れて、裸足の状態でした。雪も降っていました。夜も何回も何回も津波が押し寄せて来る音がして、寝るにも寝れないと言うか、恐い状況でした。語り部活動を始めて、最初は震災後の大川小学校について話していました。でもそのうち、大川小学校の校舎を見ていて「ああそういえば、ここであいつと喧嘩したな」とか「授業で怒られて廊下に立たされた」とか、この校舎には自分の小学校の頃の思い出が詰まっている、という事を改めて感じました。自分は大川小での出来事を話す事で、マイナスのイメージを皆さんに与えすぎてしまったと思います。大川小学校イコール暗い、って言うイメージを持たれている方が多いと思います。今度は自分が大川小学校は素敵な場所だとか、大川地区は美味しいものいっぱい取れる場所だった、子供たちの笑顔が溢れていた場所だったんだよって言うのを、大川小で起こった事を伝えるのと同じくらい、伝えていくべきだと思っています。

被災した人も私も、同じ一人の人間

姫野愛菜さんは埼玉県川越市出身でボランティアチームsave所属。ボランティアで岩手県に通い続けている。

姫野愛菜さん(震災当時小学5年生 埼玉県川越市 ボランティアチームSAVE所属)

姫野愛菜さん:
震災前から岩手県には何度も行ってました。東北は大好きです。岩手に行くと、震災当時の話を聞かせてもらいます。怖いと実感します。埼玉の人が準備しないのは、知らないからではないかと思います。知って分かったら怖くなり、何かしなくては、と思うので、被災地の人の話を聞いて伝えなきゃって思います。去年12月、てっちゃん(只野哲也さん)と出会いました。震災の日、私はたまたま埼玉にいて、てっちゃんはたまたま大川小にいて、そこで被災した。決して特別な人じゃない。すごい子だなと見るのじゃなくて、それぞれ違う場所で一生懸命生きている「一人の人間」、と見るのだと。それが、東北の人と一緒に防災活動をしようと考えるきっかけになったと思います。てっちゃんと知り合いになった時、「何でこんなに東日本に来てくれるの?」と聞かれました。一番は単純に東北が好きなのです。東北の人達はあったかくて、埼玉の人達を受け入れてくれます。ここで繋がりができて、被災地というよりは人がいるから会いに行く感じです。その人たちのために、何かできないかなと思って、東日本を私は訪れていると思っています。

被災地の事を知らないと始まらない

池谷賢人さんは神奈川県相模原市在住で法人ROJE所属。震災当時中学2年生。

池谷賢人さん(震災当時中学2年生 神奈川県相模原市 NPO法人ROJE所属)

池谷賢人さん:
ボランティアをするにあたって大切にしているのは“やらせて頂いてる立場なんだ”ということ。先輩から言われた言葉ですが、やってあげるというのは違う。私たちは手伝わせてもらっているんだと言う気持ちを持たないと。それ忘れたら駄目だと思っています。もう一つはできるだけ被災地に足を運ぶということで、まずは私たち被災地の事を知らないと始まらないんじゃないかなと。僕も福島に何回も行って素敵な方々と会って、温かいなと思いました。出かけて行って関わっていくのが大事だと思います。もう一つ、より被災地のニーズに合った活動を目指しています。震災から8年以上経過して、被災者の現状も変わってきていると思います。できるだけ人と会って、どういう活動やっていきたいか、また自分達はどうしたらいいのか、ずっと考えて行動していくことが大事なのかなって思っています。

「被災地」から「未災地」に戻らせないために

雁部那由多さんは大学1年生で東松島市立大曲小5年生の時に被災。今回一緒に参加した高橋さつきさん、武山ひかるさんの一つ先輩。高校1年時に、震災について話した内容を「16歳の語り部」として出版された。震災社会学を志向する。

雁部那由多さん(震災当時小学5年生 東松島市)

雁部那由多さん:
震災から5年過ぎた頃から語り部として活動してきました。当日、大曲小学校にいて、目の前で大人5人が津波に流されていく光景を見ました。私が一番ショッキングだった体験です。私は語り部としてお話をすることで、若干自分の気持ちが楽になりました。それをバネにして今、何とか災害についての研究をできないかと前を向くようになりました。他にも震災を忘れるという方法もありますし、死に関する本を書くというのもある。これらはすべてそれぞれの人の中にある回復力が整えられてきたのではないか、と思います。 これほど災害がある国も中々ないですが、その中で培われてきたのが回復力・復元力、そのレジリエンスではないかと思います。宮城県で公開している動画を見ると、前にも津波が来た時に、こういう番組が作られている。私達がもし、震災前に津波の映像を見ていたら、もしかしたら津波の時の行動が違ったんじゃないのかなと。なので、私が今考えているのは、教育の部分にこういうものを取り入れられないか、と言う事です。今「被災地」がだんだん「未災地」という所に戻ろうとしています。これは風化も含めて、災害を経験していない新しい世代がどんどん出てきているという事です。でも、私達の世代も上の世代も、私達が住んでいる所にこんなことがあったんだよ、と映像で残っているのを私たちは知らなかった訳ですので、私たちは「未災地」のところに来た訳です。1960年から約50~60年経って、未災地に戻ってしまった。未災地に戻ってしまったところに災害が来て、また東日本大震災の被災地となりました。これから何年かけて未災地に戻るか想像できませんが、なるべく戻さない。戻してしまうとしても、こういう資料とか、経験の話を使って津波に対する意識を高めて欲しい。そういう願いが僕の中にはあります。今、災害が絶対に起こらない「神域」はありません。東京も奇跡的に今まで災害が来ていないと思います。でもこれから災害来ないと確証を持って言える人はいないと思います。だから今後は災害とどう付き合っていくか考える。災害から逃げるのではなくて、災害と付き合うというのが災害から10年経った時のテーマだと思います。

幼い頃、津波に家族や友人、自宅を奪われた若者達。その体験は想像を絶する。絶望の淵にいたであろう彼らは、それぞれの「復元力」でその後の人生を切り開いてきた。彼らの言葉はみな、未来志向だ。震災の体験を伝えやすいものに変換し、伝えようと模索する。

今回の若者トークでは、被災地の青年と東京からボランティアで東北に入る青年が意見を交換した。被災地の青年はボランティアの覚悟を知った。関東の青年は被災者が今考えている事を知った。

フラットな立場からの意見交換が、新たな災害との向き合い方に繋がって行く。

(仙台放送)

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