2011年3月12日。福島第一原発の水素爆発によって大沼勇治さんは、長く愛してきたふるさとの福島県双葉町を離れざるを得なくなった。避難生活は今年で15年を迎える。
「福島を離れて初めて、こんなにふるさとが好きだったんだと気づきました」
東日本大震災当時、結婚して間もなく、妻のお腹には子どもがいた。生まれてくる子どもたちに“ふるさととは何か”をいつか伝えたい。その思いが、大沼さんを何度も双葉町へ向かわせた。
通い続けた15年間 変わりゆく双葉町
初めて許可された一時帰宅は、震災から4カ月後の2011年7月だった。
防護服に身を包み、線量計の警告音に怯えながら、2時間という限られた時間で向かった先は母校の小学校だった。
「これがもう最後かもしれない」
カメラを回しながら歩いた校庭で、自然に小学校の校歌を歌い始めたという。
「全部歌えたんです。幼少期の記憶が一気に戻ってきて、ふるさとと自分の原点を強烈に思い出しました」
茂り放題の草、人の気配のない街、歩道を闊歩する動物たち。現実とは思えない光景に胸が締めつけられた。それでも、“いつか戻る”という希望だけは捨てなかった。
時間とともに、一時帰宅の環境は徐々に改善されていった。車で入れるようになり、街の中で回れるエリアも増えた。何度目かの帰宅では「次はこの場所を写真に残そう」と思えるほど心に余裕が生まれた。
15年が経った今、大沼さんの生活拠点は避難先の茨城県にある。
それでも月に一度、お墓の掃除のために双葉町へ向かう。家も解体せず残し、町へ貸し出している。
「家があるだけで、いつでも帰れる場所があると思えるんです」
一方で、家族はこの15年間で大きく変わった。
震災直後に生まれた子どもたちはもう中学生になり、硬式野球クラブで汗を流す日々を送っている。長男は野球が大好きで、福島の強豪校への進学を目指している。
「子どもが福島の学校に通ってくれたら、また福島との繋がりができる。それが僕にとっても嬉しいんです」
大沼さんがずっと応援してきた学校だったこともあり、長男の挑戦を強く後押ししている。
「子育てが終わったら、また双葉に戻るつもりです。家の庭に野球の練習場やドッグランを作って、子どもや孫と一緒にキャッチボールするのが夢なんです」
