2025年は玄海原発の運転開始から50年の節目の年だった。原発の建設で「仕事はいくらでもあった」という。しかし東日本大震災で2基が廃炉に。人口減少に悩む町は、“核のごみ”最終処分場の候補地となっている。

“仕事がない町”に建設された原発

1975年10月15日、佐賀・玄海町で玄海原発1号機が運転を開始。それから半世紀を迎えた2025年。原発の建設に携わった男性に当時の話をきいた。

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その男性は玄海町に住む八島一郎さん(77)。
高校卒業後、県外に就職したが、22歳の頃、父親のすすめで玄海町に戻ってきた。地元で建設が進んでいた九州で初めての原子力発電所、玄海原発1号機で建設会社の作業員として働くためだ。

八島一郎さん(77):
(この辺りは)もともと仕事がなかった。農業だけ。原発っていうのが何かわからなかった。(原子力発電所の)建設工事が始まった。仕事はいくらでもある。この辺の農家の人たちもほとんど原子力発電所に(働きに)行っていた

八島さんは「(原発は)当時の最新の技術なんですね。だから技術屋としてはいちばん興味がある。仕事は楽しかった」と当時の心境を語った。最初に原発の建設現場に入ったのは昭和46年(1971年)だったという。

1971年3月、玄海原子力発電所の起工式が開かれた。エネルギー資源が乏しい日本は原子力を「準国産エネルギー」と位置づけ推進した。

九州電力は気象やボーリング調査の結果から玄海町で原発の建設を進めた一方、反対する団体などが激しい抗議運動を繰り広げた。

小さな町に大きな財源もたらした原発

そして50年前の1975年、1号機が営業運転を開始。九州に原子力の時代が訪れた。

八島さんは当時の地元の労働環境を次のように話す。

八島一郎さん:
その当時、外(他)では日当700円だったんですよ。それが原発に行くと1000円だった。だからみんな原発に行った

その6年後、2号機が運転を開始。1994年には1・2号機の倍以上の出力を持つ3号機が初臨界となり、1997年に4基体制が整った。

原発は、当時の人口が7400人の小さな町に大きな財源をもたらした。

国内初の「プルサーマル」導入

その後2000年代に入り国内初となる試みが玄海原発で計画される。
2004年、九州電力はウラン燃料を再処理してリサイクルする核燃料サイクルの一環としてプルサーマルの導入を決定した。

九州電力の松尾新吾社長(当時)は「九州電力の意思として、プルサーマルの実施について玄海原子力発電所3号機で行ないたい」と明言。玄海原発に新たな歴史を刻むことになる。

搬入されるMOX燃料
搬入されるMOX燃料

使用済みの核燃料を再処理してつくったMOX燃料が玄海原子力発電所に到着。MOX燃料を入れた容器がゆっくりとクレーンで釣りあげられ玄海原子力発電所に初めて搬入された。

MOX燃料が船で運び込まれるのを前に、プルサーマルに反対する人たちが船上から激しい抗議行動を展開した。

賛否渦巻く大きな議論を巻き起こしながら玄海原発3号機でプルサーマル発電がスタートした。

大震災で迫られた再稼働と廃炉の選択

そして2011年。原発の安全神話を覆す事態が起こる。東日本大震災だ。原子力発電の安全神話が崩壊し、厳しい目が向けられるようになる。

国はエネルギー政策を見直す方針を示し、原発の反対を訴える市民団体の活動も活発化する。市民団体は、「玄海原発の4炉が停止した後、再稼働させずに、このまま廃炉とすることを古川知事(当時)に求める」と訴えた。

玄海原発は定期検査で発電を停止した4基の再稼働が焦点となった。
九州電力は玄海原発3・4号機の「安全審査」を申請。再稼働へ向け大きく舵を切る。

一方で、運転開始から40年が迫っていた1号機の判断が注目された。

九州電力・瓜生道明社長(当時):
本日の取締役会で玄海原子力1号機の運転終了を決定させていただきました

“廃炉”で玄海町は厳しい財政状況に

九州電力が選んだのは「廃炉」。多額の安全対策費用がかかる見通しで、経営上の利点が見込めない点がその理由だった。

また原発立地自治体の玄海町にとっても大きな影響を及ぼす判断でもあった。

玄海町岸本町長(当時):
1号機が廃炉になることで玄海町にとっては財政的に厳しい状況がやってくることには変わりない。それをどうやって回復していくか。町民への行政サービスをどれだけ質を下げないで維持していけるか、ということを考えながら事業をやっていきたい

その後、2号機の廃炉も決定。約30年かけて建物などの解体作業を進めていくことになった。

“核のごみ”最終処分場の候補地に

原発とともに歩んできた玄海町。その後、新たな判断を迫られる。
それは、原子力発電で出る高レベル放射性廃棄物、いわゆる“核のごみ”の最終処分場選定の第1段階にあたる「文献調査」。2024年5月、玄海町は文献調査の受け入れを表明した。

玄海町 脇山伸太郎町長:
これまでの町議会などの意見や議論、国からの要請を熟考した結果、文献調査を受け入れる決断にいたりました

町民の不安や疑問に答えようと国は実行委員会を組織し「対話を行なう場」を設定。実行委員長に選ばれたのが玄海原発1号機の建設に携わった八島さんだった。

八島一郎さん:
NUMOから勉強会をやるという話が来た。調査を引き受けたからには知らないといけない。文献調査は何たるものか、最終処分場はどうなのかということを知る必要があると思ったから引き受けた

人口減少に悩む小さな町に

1975年に玄海原発1号機が運転を開始してから50年。
原発とともに生きてきた八島さんは、人口が減っていく町の現状を嘆く。玄海町の人口は1995年の7700人余りをピークに減り続け、現在は5000人を割り込んでいる。

玄海原発の運転開始からが半世紀という節目を迎えた2025年。人口減少に悩む小さな町は原発という大きな存在とともに新たな年を迎えようとしている。

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