「あなたのせいですべてが台無しになった」
非常戒厳を宣言した尹錫悦前大統領に対し、金建希前大統領夫人がこう激怒していたと、捜査を終えた特別検察が明らかにした。
韓国社会を揺るがした非常戒厳から1年。権力の座を降り、司法の判断を待つ前大統領夫妻に加え、2人との癒着が取り沙汰された旧統一教会を巡る捜査も進んでいる。
街頭では中国人排斥を訴えるデモが続き、フェイクニュースへの規制を巡る議論も本格化してきた。韓国社会は今、大きな転換点に立たされている。
司法の判断待つ前大統領夫妻
2025年9月、尹前大統領はソウル中央地裁に出廷した。非常戒厳を巡る刑事裁判の初公判で、公に姿を現すのは約3カ月ぶりだった。
白髪が増え、やつれた表情。少し大きめに見える上下紺色のスーツの胸には、拘置所の収容者番号が記されたバッジもあった。
その姿は、半年ほど前まで大統領を務めていた人物とは思えない。エアコンのない6畳ほどの独房で過ごす勾留生活の過酷さが、にじみ出ていた。
事の発端となったのは、2024年12月3日の非常戒厳だ。
国家の重大な危機に際し、政府が軍を動員して治安維持にあたり、表現や集会などの自由を一時的に制限する非常措置である。
尹前大統領は当時、非常戒厳を宣言した理由について、野党による内政停滞や、与党が大敗した2024年の総選挙での不正介入疑惑などを挙げた。しかし、その主張が韓国社会の合意を得ることはなく、2025年3月の弾劾審判で尹前大統領は罷免された。
「あなたのせいですべてが台無しになった」
非常戒厳を宣言した尹前大統領に対し、金建希夫人は当時、強い憤りを示していたという。
高級ブランドを身にまとったファッションがたびたび注目を集め、ネット上にファンクラブまで存在するなど、一部ではアイドル並みの人気を誇った金夫人。しかし8月、海外事業への政府支援を求める旧統一教会の関係者から高級バッグを受け取った疑いで逮捕された。大統領経験者の夫人が逮捕されるのは、韓国では初めてだ。
3つの罪で起訴された金夫人は9月、初公判の法廷に姿を見せた。
約1カ月半、拘置所で過ごした金夫人に、かつての華やかな面影はなかった。
その後の公判で、金夫人は高級バッグを受け取ったことは認めたものの、「旧統一教会との共謀や、いかなる形の見返りもなかった」と否認している。検察は懲役15年と、罰金2億円以上を求刑しており、判決は2026年1月28日に言い渡される予定だ。
この日は、金夫人にバッグを送ったとされる旧統一教会の元ナンバー2や、旧統一教会との癒着で起訴されている尹前大統領の側近議員にも判決が言い渡される。韓国メディアはこの日を「運命の日」と称している。その「運命の日」は、旧統一教会のトップ、“マザームーン”にも迫っている。
旧統一教会 韓国でも解散命令請求か
2025年3月、韓国のテレビであるCMを見て驚いた。それは、旧統一教会のCMだった。
教団の本部があるソウル近郊に、総工費500億円とされる「天苑宮」がオープンするという内容で、同じCMが複数のテレビ局で何度も流れていた。
日本では、信者による高額献金などを背景に解散命令請求が出ている旧統一教会だが、韓国では長らく、それほど問題のある宗教団体とは認識されてこなかった。
ソウルから車で1時間あまりのところにある加平には、教団の中枢施設が立ち並ぶ。さらに、教団が運営する病院や学校、高齢者施設にハンバーガー店まである。
筆者も先日現地を訪れたが、街のいたるところに監視カメラが設置され、不思議な静けさが漂っていた。
しかし、韓国でも旧統一教会の解散命令請求に向けた動きがある。
9月には、教団トップの韓鶴子総裁が、前政権との癒着疑惑で逮捕された。李在明大統領は12月、「政教分離に反した宗教団体」に対する解散命令請求を検討するよう指示しており、旧統一教会を念頭に置いたものとみられる。
さらに、現政権の閣僚が旧統一教会から金品を受け取っていた疑惑も浮上した。
李大統領は、与野党を問わず厳正に捜査するよう指示しており、旧統一教会が韓国でも解散命令請求を受ける可能性は高まっている。
社会不安から排外主義へ
非常戒厳を巡る混乱は、政治不信を深めただけでなく、社会の不安や怒りの矛先を外部に向けさせる土壌も生み出した。
3月、尹前大統領の罷免を判断する弾劾審判を前に、韓国社会は賛成派と反対派で分断が深まっていた。
筆者は当時、弾劾反対を訴える大学生などが集まった団体を取材した。彼らは、当時の野党「共に民主党」への拒否感や、不正選挙を巡る陰謀論に同調し、弾劾反対を主張していた。アパートを借り、寝泊まりしながら集会を企画する中で、弾劾賛成派の両親と縁を切り、家出した学生もいた。
団体の代表は当時、「民主主義国家で政治に関心を持たないのは無責任だ」とした上で、「人々が互いに憎み合うのではなく、理解し合える社会になればいい」と語っていた。
しかし、尹前大統領の罷免が決まると、若者を中心とした保守支持者たちは「ユン・アゲイン」を訴えるようになった。さらに現在では、「チャイナ・アウト」など、中国人排斥を訴える主張を強めている。
筆者が取材した団体のメンバーらは、習近平国家主席の顔が描かれた国旗を破ったとして、11月、検察に立件される事態となった。「理解」を口にしていた若者たちが、「排除」に動く――悲しい現実だ。
フェイクニュース根絶へ法案提出
非常戒厳から1年がたった今、社会不安をあおるフェイクニュースへの対応を巡り、規制に向けた動きも進んでいる。
与党「共に民主党」は12月、国会に「虚偽情報根絶法」を提出した。フェイクニュースを流布したユーチューバーや報道機関に対し、損害額の最大5倍を賠償請求できるとする内容だ。
韓国社会では、フェイクニュースが反中国感情や不正選挙陰謀論など、複数の不安を結びつけ、政治不信や排外主義を増幅させてきた。
尹前大統領が非常戒厳を宣言した背景にも、保守系ユーチューバーの影響があった可能性があると、複数の韓国メディアが指摘している。一方で、この法案については、フェイクニュース対策を名目に言論の自由や民主主義が脅かされるとの懸念も出ている。
フェイクニュースにどう対処していくかは、日本も抱える共通の課題だ。韓国での議論の行方に注目したい。
韓国では非常戒厳によって、さまざまな社会課題が一気に表面化した。その多くは、日本社会も同様に抱える問題でもある。
韓国社会の揺らぎは決して対岸の火事ではない。そこから日本は何を学ぶことができるのか。私たちに静かに問いかけている。
