移民ゆえに必須な言語習得
筆者が訪れたのは、パリ市内10区 FLA(Francais langue d’accueil)移民向け語学ボランティア団体。
国などから支援金が投じられ、現在150人以上のボランティアが参加。現在、約40カ国650人の移民や庇護申請者を受け入れている。
この日、取材したのは、フランス語を2カ月前程から勉強を始めたクラス。
参加者は、スーダン・ソマリア・パキスタン・南スーダン・アフガニスタンからの生徒。皆およそ20-30代の若者だ。
授業は非常に和やかに進み、性別や年齢、宗教などは関係なく、フランス語の勉強に勤しんでいた。出身国同士が緊張関係にあっても、「この教室の中に入るときは、外の対立をドアの外に置いてくる」という暗黙のルールが共有されているという。
ここでは「難民コミュニティー」ではなく、「同じフランス語学習者」として出会い、学ぶ姿勢が求められているのだ。
筆者も体験 授業で重要視されていた“緊急性”
授業は、アルファベットの発音から始まり、出席の確認、天気の表現授業などから行われる。
フランス語初心者の筆者も飛び入りで参加させてもらったが、私の拙いフランス語のレベルに合わせて単語を選び話しかけてくれるなど、とても明るい雰囲気だった。
ここまでは、想像していた一般的な語学学校の授業と同じだったが、このあとから移民向け語学レッスンの側面を見せ始める。
ここからかなり生活に実践的な表現の学習となっていく。頭・首・腰などの人体の部位について表現を学び、体の不調や、医者への電話のかけ方、など生活に紐付いたフレーズや単語を中心に学ぶのだ。
また、他の中・上級の別のクラスでは、さらに実践的で、実際の求人を参考に、見方や仕事の条件面での比較など、フランス社会で生き延びる術を習う。
授業で重要視されていたのはまさに命の危機や差し迫った緊急性をどのように対処するのかという点だ。生徒たちは和やかな笑顔をのぞかせる一方で、その目は切迫感に満ちていた。
「言葉を学ばなければここに居続けられない」という雰囲気が、教室の空気には確かにあった。
ヨーロッパをさまよい路上生活から団体スタッフに
また、この団体「FLA」には卒業生がスタッフとして働いている。
アフガニスタン出身のパルウィズ・アクバリさん(39)。
彼は戦争による祖国離脱からフランス定住に至るまでの長い旅路と、移民としての挑戦、そしてフランスの移民政策や支援体制への意見を率直に語ってくれた。
戦争で故郷を追われた少年時代
アクバリさんはタリバンが台頭する1998年、アフガニスタンから13歳で家族とともにカブール近郊からイランへ避難。一家9人で出国し、過酷な移動の途中で姉を亡くし、イランでは2011年まで不安定な労働を続けながら生活基盤を必死に支えたと振り返る。
2011年にヨーロッパを目指して出発し、ギリシャ、北マケドニア、セルビア、イタリア、ベルギー、オランダ、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーと各国を転々としたが、ノルウェーでもイタリアでも庇護申請は却下された。
行き先を失う中で親族の勧めもあり、2015年8月にパリへ到着。2016年3月に難民認定を受けることに…そのときを振り返り、「フランスは私に優しかった」と感慨深く話す。
しかし、フランス到着直後の生活は困窮を極めた。当時彼には支援の手が差し伸べられることはなく、サン・マルタン運河近くで約1か月半、寝袋で路上生活を送ったという。
生活はボランティア団体頼みで不安定な生活が続いていたが、「助けてくれる人と場がここにはある」と実感したことが他国へ去らずフランスに残る大きな動機となった。
その後、移民支援団体と出会い、今勤める団体でフランス語を学び、ボランティアなどとして関わる中で23年からは社会・言語のコーディネーターとして雇用されるようになった。
言葉と住まい、仕事――移民の「3つの壁」
自らの過去を振り返りつつ多くの難民が支援なく取り残される現状への怒りや問題意識を持つアクバリさん。しかし、今は「自分は動けるし、他の人を助ける側にも回れる」と考えることが出来るという。
移民・難民が直面する最大の課題は「成人した後にゼロから人生をやり直すこと」だと強調する。
特に「言語」「仕事」「住まい」の3つが鍵であり、これらを確保できなければ孤立と困窮が続く一方で、自分は協会の支えや自ら動くことで道が開けたという。
いまもタリバン支配下の祖国を夢に見るほど戦争の記憶は生々しく、アフガニスタンに安心して戻れないことに深い悲しみを抱くアクバルさん。
一方で、フランス社会や文化を深く知るようになった自分は「アフガン人でありながら、フランスをよく知っている」と感じていて、祖国の言語と文化を大切にしつつ、フランス人としてもここに根を張り、「二つの文化を持つことが自分を豊かにする」と語ってくれた。
