ワシントン・ポスト紙(WAPO) も同様だが、その語り口はさらに劇的だった。
「これはベートーべンがピアノに向かう姿だ。これはシェイクスピアが羽ペンを握る姿だ。これはマイケル・ジョーダンとタイガー・ウッズがひとつになった夜だ。そしてその試合は、彼にとっての“モナ・リザ”だった」
ここまでくると、スポーツ選手の評価ではなく 「歴史に残る人物の描写」 に近い。NYTは文化的な象徴として、WAPOは芸術家や天才の系譜として、そしてWSJは市場の視点から捉えた。三紙がそれぞれ別の角度から大谷を“社会的現象”として扱ったことが興味深い。
米国社会が大谷翔平に興奮する理由
では、なぜ米国では一人の選手の活躍がここまで大きく扱われるのか。その背景には、日本の「野球」と米国の「ベースボール」の価値観の違い があるのではないか。日本では「どう勝ったか」「努力が報われたか」といった物語性が重視される。
それに対し、米国では 「人間がどこまで限界を突破できるか」という視点が前面に出る。だから 10奪三振+3本塁打 という記録は、「勝ち負け」ではなく「人間の性能が更新された瞬間」として捉えられたのだ。

あの日、大谷翔平が見せたパフォーマンスは、ただの「すばらしい試合」ではない。それは米国社会にとって「人間とは何か」「限界はどこにあるのか」を考えさせる出来事だった。
そしてその認識は、スポーツ紙ではなく、ウォール街の新聞によって公式に記録された。スポーツ欄ではなく社会欄で語られる野球──大谷翔平は今、ニュースの境界線を越えたようだ。
(執筆:ジャーナリスト 木村太郎)
