60年前の9月、福井県内は奥越を中心に集中豪雨が襲いました。県によりますと総雨量は36時間で1044ミリ。現在の大野市の1年間の雨量は約2200ミリなので、その半分の量が1日余りで降ったことになります。この奥越豪雨をきっかけに一つの自治体が消滅しました。それが、当時、大野市と和泉村に隣接していた西谷村です。やむなく村を離れることになった元村民に災害の状況や古里への思いを聞きました。
「土砂が川に流れると、水半分、土砂半分でもう水がどんと上がる。茶色い水が流れて家も一緒にぐーっと流れるのが見えるんですわ」
今も心に刻まれる災害の記憶。
1965年(昭和40年)9月、西谷村を集中豪雨が襲いました。14日から15日までの36時間の雨量は、福井地方気象台の創設以来、未曽有の1044ミリ。
西谷村は、再建が見込めないほどの壊滅的な打撃を受けたのです。
大野の市街地から車で約30分のところに、美しい緑が広がるキャンプ場があります。ここ中島は、かつて存在した西谷村の中心部です。
西谷村は、真名川渓谷に集落が点在する村で2500人ほどが暮らしていました。雲川と笹生川が合流し、真名川となる地点にあった中島には役場や学校、商店などが集中していました。
奥越豪雨では、この地形の影響もあり、中島集落と下流の上笹又集落で9割以上の住宅が全壊するという甚大な被害を受けました。
上笹又の下流にある下笹又出身の廣瀬柳治さん(89)は、豪雨が始まった夜、自宅で家族と過ごしていました。
あまりの激しい雨に恐怖を感じたといいます。「雨どいがもう全然効かないんですよ。ダーッとカーテン降ろしたようになってしまって。それはすごかったです」
その日、西谷村では森林組合のメンバーが慰安旅行に出かけていて、集落に残る若い男性は廣瀬さんを含む3人のみでした。
「電気の消えないうちに家内やおばあちゃんを起こして支度させて。それから電気が消えたんで、これはダメやということで、集落のお年寄りを皆、お宮さんに避難させて…若い人がいないから年寄りを事故に遭わせたらあかんと思って」
高い場所にある神社まで逃げましたが、さらに雨がひどくなったため、廣瀬さんたちはお年寄りたちを山の上の鉄塔まで避難させ、そこで一夜を明かしました。
昭和40年当時、愛知県に住んでいた関角正幸さん(85)は、報道で西谷村の災害を知り、歩いて山を越えて現場に駆けつけました。
その年に生まれたばかりの息子の写真を撮るために買ったカメラで、現場の様子を夢中で撮影しました。
「中島に行ってびっくりした。雲川橋から渡ったところに橋があったけど、家が流れてきて津波が返ってね。仏壇の位牌がいっぱいあって、その上に残骸がのっていた。そりゃびっくりしたわ」
西谷村出身の人たちが大切に残しているものがあります。当時、中島小中学校に通っていた子供たちが、豪雨の後に書いた作文です。
<朗読>
「音が島が崩れる…もっと高い所に登れ!」と叫んだ。
みんな走るというより草をかきむしるように上へ上へと逃げた。
山から下を見ていると次々に家が流れて行く。
今度は僕の家の番だ。
「しまった、アルバム!」もう少し早く気が付けば持って逃げたかった。
文集を見ながら振り返るのは、当時、小学1年生だった仲井太さん(66)と叔母の野田芳江さん(83)。被害の大きかった上笹又集落の出身です。
仲井さんは災害発生から2日後にヘリコプターで救助されました。「ヘリコプターの作文を書いたけど、乗った時に“フワンフワン”としたことだけ覚えている」
豪雨から一夜明けた光景を今でも忘れることができません。
「ヘリコプターから、下の方に小さく見える木と木の間から、茶色い水ががーっと流れて家も一緒にぐっと流れてるのが見えるんですわ。そのシーンは本当に覚えてますわ、もう鮮明に」
壊滅的な被害を受けた西谷村は大野市に編入されることが決まり、昭和45年6月30日に廃村となりました。
豪雨の後、住民が次々と村を離れる中、野田さんは最後まで西谷で暮らしました。
「村長さんがうまくちゃんと説明してくださって“そうやな”って納得して。村を出るときはやっぱり少し抵抗があったような記憶がある」
「環境はものすごくいいし、水もきれいやし。全員が1つになれて…悲しいことも楽しいことも、みんなで協力し合って大家族みたいな感じで。助け合いの精神、絆は強かったのぅ」
互いに支え合い励まし合いながら、困難を乗り越えてきた西谷村の人々。その心には今も自然豊かな西谷の風景が息づいています。