2025年8月で終戦から80年です。
太平洋戦争末期、世界最大級の戦艦「大和」に乗り戦死した岩手県一関市出身の男性がいます。
遺族は男性の生きた証しを残そうと、遺品を今も大切に保管しています。
太平洋戦争末期、特攻作戦で沈没した戦艦「大和」の甲板で撮影された写真です。(資料提供:大和ミュージアム)
その中には、大和の乗組員として、35歳で戦死した一関市花泉町出身の猪股慶蔵さんの姿もありました。
慶蔵さんの生まれた家では、この写真が今も大切に残されています。
慶蔵さんの兄の孫 猪股恭一さん
「(大和の)右舷の前で撮った写真です。これが砲台」
保管しているのは慶蔵さんの兄の孫・猪股恭一さん(77)です。大叔父に当たる慶蔵さんの様々な遺品を祖父から受け継ぎました。
戦後生まれの恭一さんは慶蔵さんとの面識はありませんが、家族や親戚からその人となりを聞いていたと言います。
慶蔵さんの兄の孫 猪股恭一さん
「お前の叔父さんは優秀だと、そういうことばかり聞かされてきた。確かにそのように兵学校も入って、海軍一筋という人生のようでした」
慶蔵さんが軍に入ってからの履歴書には、1929年に横須賀海兵団に入り、その後は重巡洋艦「愛宕」などの船に乗りながら通信員を務めてきたことが書いてありました。
慶蔵さんの兄の孫 猪股恭一さん
「兵学校ですから、軍艦に乗るのが夢だったんじゃないですか。当時日本を守るとか、国を守るというのは(みんなあった)」
慶蔵さんの日記には、1942年5月10日のページに戦艦「大和」を見学したとあります。
全長263m、世界最大とされた「46cm主砲」を搭載していた「大和」は強力な武装を誇っていましたが、1945年4月に沖縄に向かう途中で米軍の攻撃を受け沈没しました。
亡くなった乗組員は3000人余りです。(資料提供:大和ミュージアム)
当時中尉だった慶蔵さんも犠牲となり、家族のもとには戦死を知らせる書類が届きました。
慶蔵さんの兄の孫 猪股恭一さん
「(亡くなったのは)35歳。考えられないね、今であれば。かといって逃げるわけにもいかないだろうし。本当にもったいない人生だと思う」
亡くなる2年前、慶蔵さんは妻・さよ子さんとの間に娘・尚子さんをもうけました。
戦争が激化する中でも家族を思い、多くのはがきを送っています。
その中には、まだ小さかった娘・尚子さんへのメッセージもあり「尚子ちゃん、相変わらずお元気ですか。今から寒いんだから気をつけなさい」と書かれていました。
慶蔵さんの兄の孫 猪股恭一さん
「(親戚の)叔父さんたちは、一番優しい叔父さんだと言っていた。当たり前ですけれど、本当に子ども・奥さんを心配していたんだなと」
恭一さんは、慶蔵さんをはじめ多くの尊い命が失われた「戦争」は、愚かなものだと訴えます。
慶蔵さんの兄の孫 猪股恭一さん
「ウクライナ、中東の方で戦火が絶えないが、本当に愚かなこと。死んでしまった人たちだけ本当に、みじめだね。家族、あるいは子どもたちも」
恭一さんにとって思い出深い品の一つに、慶蔵さんが生前、この家に贈った蓄音機があります。
今は壊れて動かすことはできませんが、恭一さんが小さい頃はお盆の時期などにレコードをかけて慶蔵さんをしのんでいたと言います。
慶蔵さんの兄の孫 猪股恭一さん
「形としてお墓もあるし、遺品もあるし。(慶蔵さんのことは)ただの語り草ではない。絶対捨ててはだめだと、孫たちにも子どもたちにも話している」
戦後80年。戦争を知る世代が少なくなる中、恭一さんは未来にその記憶をつないでいくとの思いを一層強くしています。