認知機能(判断能力)が消失する前に、「自己の尊厳を保つ」ために自殺するか、そもそもそういう、最終的に他人に委ねなければいけない判断は自分でもしてはいけない、と諦めるかである。
今の日本では、前者の立場からの「家族に迷惑をかけたくないから死にたい」なんて言葉にも否定的で、後者の立場が優勢である。
そのため多くの人は、「何人も、自分以外の人の命を決めてはならない」という原則論を遵守するため、己の苦痛を防ぎ尊厳を守ろうとして「自分自身の命を決める」のも断念せざるを得ない。

私はここでその是非をどうこう言わないが、人間はみな他人の原則に縛られ、それを冒さぬように生きていくのだなと感慨を抱く。
そうして生き続けた結果、「老醜を晒す」なんて嫌な表現をされる状態になることも多い。
それは周囲も疲弊させる。
癌専門医は「癌で死にたい」
私の知るナースは結婚前に、旦那さんに先立たれるのなら「癌で、私は十分看病して尽くしたけれど体力的にまだ余力があって、『あなた、私をおいて死なないで』って、泣けるタイミングで逝ってほしい」と言っていた。
私もまた、そのくらいで、周囲から惜しまれ、泣かれて死にたい。

さだまさし『関白宣言』の歌詞もそうだ。
癌の専門医が一様に「死ぬなら癌がいい」と望むのは、「生きる価値がなくなった、自殺したい(けどできない)」状況を避けるためなのだ。

里見清一
本名・國頭英夫。1961(昭和36)年鳥取県生まれ。1986年東京大学医学部卒業。国立がんセンター中央病院内科などを経て日本赤十字社医療センター内科系統括診療部長。著書に『医学の勝利が国家を滅ぼす』『死にゆく患者と、どう話すか』『「人生百年」という不幸』など