患者の自殺を全て「間違った行動」とし、その「合理性」を排除してしまえば、患者の「わかってもらえない」という孤立はもっと深まると言うのである。
ポッター先生たちは、多くの自殺は術後まだ再発がわからない時期にされているので、一概に「予後が悪いから死を選ぶ」とは言えない、と反論したが、「合理的な自殺」も非であるかどうかには言及していない。
ならば、正確な事実認識と冷静な考察に基づく自殺は、許容されるのか。
もしそうなら当然、他人がその幇助をする安楽死も可になる。
ここで「自殺は肯定されるのか」の考察自体がとんでもないと思われるかも知れないが、これは一律に却下できる問題ではない。

アルベール・カミュは『シーシュポスの神話』(新潮文庫)の中で、「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」と言っている。
また、宮下洋一『安楽死を遂げるまで』(小学館文庫)では、重度の精神疾患を抱え何度も自殺未遂を起こした患者が、安楽死が認められた(いくつかの国では、身体的な苦痛のみならず、鬱病のような精神的苦痛でも安楽死が許容されている)ことによって落ち着き、生活できるようになった例が報告されている。
ハインリックス先生が指摘するように、自殺を頭ごなしに否定してしまうのは、患者をさらに孤立と絶望に追いやる結果にしかならないようだ。
しかしながら、カミュのような「人生は生きるに値するか」なんて「哲学的」考察の結果、「人生に価値なし」と結論してしまうと、あまりに自殺のハードルが下がってしまう。
我々は一高生・藤村操の華厳の滝への投身を、一中節の「さりとは狭いご了簡、死んで花実が咲くものか」そのものと思うが、ではお前は藤村よりも人生を考えていたかと問われると困る。
各個人の「哲学の深さ」は評価不能だから、これはやはり年齢で区切るしかないように思う。
一定以上の高齢者はその判断を尊重し、若者が「人生に絶望した」なんて場合はひっぱたいてでも「生き続けさせる」のである。
身体的苦痛と「安楽死」の選択
その一方、身体的苦痛は、自分にしかわからないから、「生きるに値しない」と自分で判断するのを全く許さないのは酷なように思える。
もちろん、癌患者を診療する身としては、そうした患者の症状緩和に最大限努力するのは当然だが、癌に限らず以前より少なくなったとはいえ、どうしても「堪え難い苦痛」が残る場合はある。

だがそこまで身体的に追い込まれると、通常は独力での自殺もできない。
よって、「そういう場合、自殺も仕方がない」と認めるのであれば、少なくとも私のような医療者は、本人に代わって安楽死させることも覚悟しなければならない。
認知機能低下=死に方を選べない…!?
さて、身体症状の場合は苦痛が軽減すれば「自殺なんてやめた」という判断は容易にできるが、もう一つ、精神的苦痛の言わば亜型である認知機能低下はどうか。
多くの人は、認知機能が失われたら生きていたくないと考えるだろうが、その「判断」は難しい。
何より、「判断能力が失われた」時点での話だから、その時には自力での自殺はもちろん、「死なせてもらう」かどうかの判断の確認もできない。

つまり、本人が「生きるに値しない」と判断した状況に相当する、と最終的に判断を下すのは、他人だということになる。
そんな重大事の最終判断を他人が行うのは倫理的に不可、とすると、方策は二つしかない。