プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!
最速154km/hの速球で打者と真っ向勝負し、中日ドラゴンズのエースとして122の勝ち星を積み重ねた小松辰雄氏。最多勝2回、最優秀防御率1回、沢村賞1回。スピードガンが導入されたプロ野球界で、その速球が記録する数字でもファンを魅了した“スピードガンの申し子”に徳光和夫が切り込んだ。
【中編からの続き】
中日優勝「小松に始まり小松に終わった」!?
1982年、中日はセ・リーグを8年ぶりに制覇。日本シリーズでは西武に敗れたものの、小松氏にとっては初めての優勝だった。
徳光:
1982年のリーグ優勝では、小松さんは先発完投で胴上げ投手になるんですよね、ただ、印象的なことに、小松さんはこの年は2度しか先発をしていない。

小松:
開幕戦と最後しか先発してないんですよ。
徳光:
小松に始まり小松に終わった。
小松:
そうなんですよ。キャンプからずっと体調が悪かったんです。今思えば花粉症なんです。でも、あの頃は花粉症なんて知らなかったんですよね。オープン戦も全然良くなかったんですよ。当時、監督は近藤(貞雄)さんで、すごく期待してくれてて開幕投手になったんですけど、調子が悪いですから、案の定、早々にノックアウトされて負けたんですよ。
徳光:
ええ、ええ。

小松:
それで名古屋に帰ってから「ミニキャンプをやれ」ということで、遠投やって、ピッチングやって…ってやってたんですよ。3日目くらいのときかな。遠投してたら、右足の内転筋がブチッていって壊しちゃったんです。
復帰したのはオールスター後なんですよ、それまで全然治らなくて。そのとき、若い宇野(勝)さんや中尾(孝義)さん、それに都(裕次郎)さんとか投手陣も頑張って優勝争いをしてたわけですよ。
徳光:
そうでした。

小松:
残り2試合で1試合勝てば優勝だったんですけども、負けちゃったんですよね。それで「明日は先発、誰が投げるんだ?」ってなってたんです。当日グラウンドに行ったら、近藤さんが外野にピッチャーを集めて、「今日先発だと思う者は手を挙げろ」って言って、私が挙げた。「じゃあ、お前、投げろ」って感じで言われましてね。
徳光:
そうなんですか。
小松:
そんな感じで先発したんですよ。

中日は勝てば優勝というシーズン最終戦の大洋戦に8対0で快勝し、セ・リーグ制覇を成し遂げた。小松氏は大洋打線を2安打で完封し胴上げ投手となった。この試合では、大洋が長崎慶一氏に首位打者のタイトルを取らせるため、長崎氏を欠場させ、打率1厘差で追いかけていた田尾安志氏を全打席敬遠するという戦法を採用して物議をかもした。

徳光:
この試合は田尾さんのことがあったので、異様な雰囲気でしたよね。
小松:
そうですね。いきなり敬遠から試合が始まりましたしね。そこから5連続敬遠でしたから。松井と一緒ですけども(笑)。
徳光:
そうですね(笑)。
徳光:
ゲーム的にはワンサイドでしたよね。

小松:
1回表、中日が攻撃してるときにブルペンで投げてたんですよ。そしたら、星野さんが来て「今日は勝つことになってるから気楽に投げろ」って言うわけですよ。それで1回の裏、マウンドに行って投げたんですけど、初球かな、いきなり山下大輔さんがツーベースを打ったんです。「あれっ、話が違うやないか」と思いました(笑)。でも、その後を抑えて0点。2回表に谷沢(健一)さんがホームランを打って、そこからはワンサイドでしたね。
徳光:
そうでしたよね。そのお話を伺いますと星野さんは小松さんに対して、「今日は勝てるぞ」って、催眠をかけたみたいなところあったんですかね。
小松:
「勝てる」、「勝つことになってるんだから」って。
徳光:
そのあたりの才覚もあるのかもしれませんね。
「打者の心が読めた」タイトル独占

小松氏はプロ8年目の1985年にキャリアハイの成績を記録する。17勝8敗1セーブ、防御率2.65、172奪三振で、最多勝、最優秀防御率、沢村賞のタイトルを獲得。奪三振数もリーグ1位であった。
徳光:
この年は本当に神がかり的なピッチングだったと思うんですけど、ご本人が振り返っても最高の年だったんじゃないですかね。

小松:
ゾーンに入りましたね。相手バッターが何を待ってるかなんとなく分かっちゃうんですよね。
徳光:
ほう。
小松:
真っすぐを待ってるなって感じたら、真ん中に遅い真っすぐ、チェンジアップみたいなのをそっと放っとけば、タイミングがずれて「あっ、あっ」ってなっちゃうじゃないですか。そうなれば、もうこっちの勝ちですよ。
徳光:
1985年といいますと、阪神が日本一になった年ですけど、やっぱりあのときの阪神打線はすごかったですか。
小松:
プロに入ってスイングでびっくりしたのが掛布(雅之)さんでしたね。速かったんですよ。マウンドまでブーンっていう音が聞こえてきそうなスイングでしたね。
徳光:
ただ、小松さんは掛布さんにはそんなに打たれてないんですよ。

小松氏と掛布氏の通算対戦成績は99打数26安打、打率2割6分3厘、6本塁打、22三振だ。
小松:
ホームラン6本ですか。打率ではそんなに打たれてないんですけど、スイングが速いのにはびっくりしましたね。
徳光:
巨人打線で印象的なバッターでは、誰かいましたか。
小松:
やっぱり原(辰徳)さんでしょう。原さんの初ホームランは私からですからね。
徳光:
そうだ、ライトへのホームラン。
小松:
もちろん振り遅れだと思うんですけど、芯に当たれば飛びますからね。

小松氏と原氏の通算対戦成績は166打数41安打、打率2割4分7厘、8本塁打、25三振だ。一方、ヤクルトの主砲として活躍した池山隆寛氏との対戦成績では興味深いデータがある。
小松:
池山にはね、ほとんど打たれてなかったんですね。でも、ある年を境に打たれだしたんですよ。たぶん癖を見破られたんでしょう。監督が野村(克也)さんでしたから。

野村氏がヤクルト監督に就任する前、1989年までの小松氏と池山氏の対戦成績は42打数7安打、打率1割6分7厘、一方、1990年以後の対戦成績は25打数12安打、打率4割8分0厘と、野村監督就任の前後で大きな差がある。
小松:
そうでしょ。なんかそういうイメージがすごくあるんですよ。
徳光:
癖を盗まれたんですかね。
小松:
たぶんそれしかないですね。
星野監督就任…怖くて捕手がサインを出せない!?
1986年オフ、星野仙一氏が中日の監督に就任する。
徳光:
星野さんが監督に就任して、小松さんがエースになるわけですけど、中日ドラゴンズっていうチームの雰囲気は星野さんが監督になって変わったんですかね。
小松:
変わりましたね。それまでは、なんていうか、ちょっと甘いところがあったんですね。星野監督は就任発表のとき、「選手に一言」って聞かれて「覚悟しとけぇ!」、それが一言でしたからね(笑)。
徳光:
その被害を一番こうむったのは、どなたなんですかね。
小松:
中村武志でしょう(笑)。

徳光:
そうですか(笑)。でも、彼が一流の捕手になったのは星野さんのおかげなんですよね。
小松:
そうですね。あのときは中尾(孝義)さんが正捕手だったんですけど、中尾さんはケガが多かったんですよ。それで星野さんが「誰かおらんのか?」って言ったら、「ファームに少々殴ろうが蹴ろうが丈夫なやつがいます」って。
徳光:
(笑)。
小松:
「それは誰だ。 なんとかせえ」という感じでね。もう毎日キャンプですよ。練習が終わったらユニホームが泥だらけでしたからね。
この頃、中村氏は星野氏のプレッシャーのためにイップスになってしまったという。
小松:
マウンドでサインを見たら、グーのまま動かないんですよ。
徳光:
イップスって、サインのイップスですか。

小松:
だから、「タイム!」って言って、「来い」って呼びつけて、「どうしたんだ」って聞いたら、「指が下におりません」って言うわけですよ。どんなサインを出しても打たれそうな気がしたんでしょうね。打たれたら、あいつが殴られるんですよ、蹴られるんですよ。
徳光:
なるほど。
小松:
「じゃあ、こっちからサイン出したるわ」って言って…。そういうこともありましたね。
徳光:
小松さんのほうからサインを出すとどうなるんですか。

小松:
それでも打たれたら、あいつが殴られる(笑)。最後にはあいつ、マスクしたままベンチに帰りましたからね。
徳光:
(笑)。
落合博満氏とトレード寸前に

星野仙一氏が中日の監督に就任した1986年オフ、中日とロッテの間で大型トレードが成立する。三冠王に3度輝いていた落合博満氏が中日に移籍、中日からロッテに移籍したのは牛島和彦氏、上川誠二氏、平沼定晴氏、桑田茂氏の4人。4対1の交換トレードだった。
徳光:
落合さんが中日に加入するじゃないですか。落合さんの存在っていうのは小松さんの中ではどういうふうに感じてましたか。
小松:
三冠王が来るわけですから、もっと勝てるかなっていうのはありましたね。でも、最初は苦労してましたからね。
徳光:
そうでしたよね。

小松:
あの4対1のトレード、ほんとは私と落合さんの1対1やったんですよ。ロッテは「小松をくれ」って言ったらしい。最初はそうやったらしいです。でも星野さんは、「小松は出せない」って言って…。それで当時、村田兆治さんの200勝がかかってたから、「抑えピッチャーを取ってくれ」っていうことで牛島になったらしいんです。
徳光:
そうだったんですね。それが4対1になったわけですか。
小松:
あのとき、ロッテに行ってたら私の人生は変わってましたけどね。
徳光:
かもしれませんね。
「10.8」幻の引退試合
小松氏は1994年限りで現役生活に終止符をうった。35歳のときだった。
徳光:
あのタイミングでの引退っていうのは、私はピンと来なかったんですけど、あの引退はご自身で決めたんですか。

小松:
いやいや。94年は高木守道さんが監督やったんですよね。8月の終わりごろに神宮球場で先発したときに、飯田(哲也)にセンター前にタイムリーを打たれてノックアウトされたんですよ。
次の日に高木さんに呼ばれて、「お前、来年もやりたいんだろ」って言われたわけですよ。「やりたいですね」って答えたら、「じゃあ、今年はもういいから、若いやつにチャンスやってくれんか」と言われたんですよ。それでファーム落ちしたんです。
徳光:
なるほど。

小松:
9月に入って球団の総務から連絡があって、「ちょっと来てくれんか」と呼ばれたんです。「やベえな」と思いましたね。
それで行ったら「北別府も引退したしな」って言うわけですよ。
徳光:
そこから入る(笑)。

小松:
そこから入るんですよ。「引退しろっていうことですか」って聞いたら「うん」。「じゃあ、小松辰雄という選手はもういらないんですか」って言ったら、「いらん」って言われました。「じゃあ、辞めますわ」。そういう感じなんですよ。
徳光:
そうですか。
小松:
でも、辞めるって言った途端にジャイアンツが連敗して、ドラゴンズが連勝しちゃったんです。それで、「10.8」になったんですよ。
徳光:
そうか、あの年か。

巨人と中日は激しいペナントレースを繰り広げた1994年。最後は、同率首位のチーム同士の最終戦直接対決となり、巨人が中日を破ってリーグ制覇を成し遂げた。プロ野球史上に残る伝説の「10.8決戦」だ。
小松:
ほんとは10月8日に引退セレモニーをやってちょっと投げる予定やったんですよ。それができなくなっちゃった。
徳光:
10.8が引退試合の予定だったんですか。

小松:
そうなんです。でも、10.8は国民的な行事になりましたからね。
それで次の年のオープン戦、オリックス戦で引退試合をやってくれたんですよ。イチローがブレイクした次の年なんですよね。イチローは中日ファンで、バッターでは田尾さんに憧れて、ピッチャーでは自分のまねをしてた。
徳光:
小松さんのファンだった。
小松:
ということでイチローの打席のときにマウンド行ったわけですよ。
徳光:
いい演出だなぁ。

小松:
それが最後だったんですけど、初球はボールだったんですよね。「フォアボールじゃ洒落にならんし、まさか打ってこないだろう」と思って、2球目を真ん中へ投げたら、それを打ってきたんですよ。右中間へフェンス直撃ですよ。
徳光:
そうですか(笑)。
小松:
今でも思うんですけど、あれは2球目は打っちゃダメなんですよ。もうちょっと楽しませてくれれば…。
徳光:
小松さんの150km/hっていうのは、我々のようなオールド野球ファンにとりましては、本当に衝撃的だったわけですけど、今の時代、150km/hは当たり前のように投げるじゃないですか。
小松:
今は当たり前ですからね。でも、今は1イニング投げて150km/hを出すってパターンじゃないですか。我々のときは9回投げてずっと150km/hを投げてましたからね。
徳光:
確かにそうですよね。
小松:
野球がちょっと変わってきてますよね。
徳光:
なるほど。いろんなお話、ありがとうございました。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/5/27より)
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