プロ野球に偉大な足跡を残した選手たちの功績、伝説を德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や知られざる裏話、ライバル関係など、「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”のレジェンドたちに迫る!

最速154km/hの速球で打者と真っ向勝負し、中日ドラゴンズのエースとして122の勝ち星を積み重ねた小松辰雄氏。最多勝2回、最優秀防御率1回、沢村賞1回。スピードガンが導入されたプロ野球界で、その速球が記録する数字でもファンを魅了した“スピードガンの申し子”に徳光和夫が切り込んだ。

小学6年でソフトボール投げ驚異の70m

徳光:
小松さんは確か能登のご出身ですよね。

小松:
能登です。能登の今は志賀町(しかまち)っていう所です。

徳光:
その志賀町でいつ頃から野球を始めたんですか。

小松:
田舎で野球チームなんかありませんから、小学校のときは遊びでやっていた程度で…。

徳光:
でも、小学校6年生のときにはソフトボール投げですごい記録を出したみたいですね。

小松:
70mくらい投げてましたね。

小学校6年生のソフトボール投げの平均は25.67m(令和6年度スポーツ庁・体力・運動能力調査)。小松氏の70mがいかにすごいかが分かる。

小松:
練習のときは75mくらい投げてましたよ。小学校がいっぱいあって、町の大会が年に1回あるんですけど、それに行ったときは、グラブを忘れてキャッチボールなしでやったんですよ。肩を回すだけで投げたら70mでした。

徳光:
じゃあ、グラブを持っていたら75mだった。

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小松:
いったんじゃないですかね。

徳光:
北陸地方ということですと、ジャイアンツファンの人が多かったんですかね。

小松:
私はジャイアンツファンでした。幼稚園の年中から中2まで巨人がずっと優勝してたんですよ。

徳光:
V9時代ですね。

小松:
だから巨人が優勝するものだと思ってるわけですよ。昭和49年に中日が優勝したときは、「他のチームも勝てるんだ」と思いました(笑)。

徳光:
そうなんですか(笑)。

小松:
「巨人の星」がありましたね。王さん、長嶋さんに憧れてましたね。

中学に進学した小松氏は野球部に入り、本格的に野球を始めた。

小松:
最初からピッチャーでした。ピッチャーをやらないときは外野をやったりしてましたね。

徳光:
星稜高校に入ったのはどういう経緯なんですか。

小松:
中学校の県大会の1回戦で完全試合をやったんですよ。それを(星稜高校の)山下(智茂)監督が見に来てたんです。私は全く知らなかったですけど、球が速いっていうので結構有名だったらしいんですよ。それで完全試合をやったものですから、山下監督と部長と教頭の3人が来られて、「ぜひ来てくれ」ということで星稜高校に入ったんです。

勝てば甲子園の試合で“頭が真っ白”

志賀町から金沢市内にある星稜高校まではバスで2時間の距離。通学するのは難しかったため、小松氏は学校が用意した下宿で生活しながら野球漬けの毎日を送った。

徳光:
星稜高校ではどうだったんですか。中学時代に完全試合をやって山下監督がスカウトに来たくらいですから、すぐにエースになられたんですかね。

小松:
3年生のエースがいたんです。でも、2年生は6人しかいなかったんですよ。

徳光:
6人だけですか。それはどうしてなんですか。

小松:
その3年生のエースの人がやんちゃな人で…。

徳光:
やんちゃな人 (笑)。

小松:
それで2年生が6人しか残ってなかったんですよ。

徳光:
星稜高校ってもっと大所帯だと思ってたんですけど、2年生は6人だけだったんですか。

小松:
その頃はまだそんなに有名じゃなかったですからね。
我々1年生が20人くらい入ったかな。ほかにピッチャーがいなかったもんですから、私が2番手ピッチャーという感じで…。

徳光:
なるほど。

小松:
入学する前に大阪遠征に連れていかれましてね。

徳光:
中学時代ですね

小松:
そこで投げさせられました。多分、相手は上宮高校だったと思うんですよ。あのときの上宮高校って、まだあんまり有名じゃなかったですからね。向こうの監督に、私を「投げさせていいか」っていうことで了承を取って、私が投げて抑えたんですよ。

徳光:
へぇ、中学生が高校生を抑えたってことですよね。

小松:
入学前ですから、そうなりますね。

徳光:
それで、高校1年生の夏の大会はどうだったんですか。

小松:
あの頃は石川と富山の2県で代表1校だったんですよ。

1975年当時は、石川県と富山県それぞれの地方大会を勝ち抜いた2校ずつ、全部で4校が参加する北陸大会が開催されていた。この北陸大会で優勝した1校が甲子園の切符を手にした。

小松:
石川県大会で勝って、北陸大会の1戦目は3年のエースが投げて、高岡商業(富山)に3対2でやっと勝ったんです。決勝の相手は金沢桜丘高校というところで、石川県同士の決勝戦だったんですけど、エースはもうフラフラだったんで、試合当日に監督が「お前、投げろ」と。勝ったら甲子園ですからね。緊張しまくりました。

徳光:
まだ1年生だもんね。

小松:
ええ。先頭バッターにフォアボールを出して、次、バントされたボールをファーストに暴投したんですよ。それから頭が真っ白になって何も覚えてないんです。いきなり4点取られたんです。

徳光:
いきなり4点ですか。

小松:
それで、先輩と代わったんですけど、結局5対4で負けたのかな。

徳光:
今それだけ鮮明に覚えているということは、やっぱり人生の中で相当な思い出なんですかね。

小松:
あれほど緊張したことはないですね。プロに入って優勝する試合も投げましたけど、あの高校1年の緊張感に比べたらたいしたことなかったですよ。

“北陸の速球王”が甲子園を席巻

1976年夏、星稜高校は2年生エースだった小松氏を中心に、4年ぶり2度目の甲子園出場をはたすと、並みいる強豪を退けベスト4に輝いた。初戦で2安打13奪三振の好投を見せ日体大荏原(東東京)を1対0で完封すると、次の天理(奈良)戦では、小松氏はホームランを放つなど投打にわたって活躍し3対2の接戦をものにする。準々決勝の豊見城(沖縄)戦では、後に巨人に入団した赤嶺賢勇投手に投げ勝って1-0の完封勝利。準決勝で、優勝した桜美林(西東京)に4対1で敗れたが、ベスト4は石川県勢初の快挙だった。

徳光:
このとき、びっくりしたのは初戦なんですね。僕は東京の人間だったんで、日体大荏原に非常に期待していたんですよ。

小松:
そうですか。

徳光:
抽選で初戦の相手が星稜という石川県の高校になって「儲けたな」と思ったわけね。

小松:
まあ、普通はそう思いますよね。

徳光:
ところが完膚なきまでにやられたわけですから。

小松:
私は「自分は球が速い」とは思ってたんですけど、ほんとに田舎者だったんで、「上には上がいるだろう」とずっと思ってたんです。

徳光:
謙虚ですね。

小松:
俺が一番だっていう人って多いじゃないですか。そしたら「上」がいたみたいな。自分は反対なんですよね。

徳光:
そうですか(笑)。間違いなく「上」がいるだろうと。

小松:
いるだろうと思ってたら一番速かった(笑)。

徳光:
そうですよね。準決勝で桜美林に敗れたとはいえ、プロでやっていけるみたいなことは考えましたか。

小松:
まだ、そこまでは考えてなかったです。
それまで石川県のチームはほとんどノーマークでしたからね。でも注目されましたから、今度はマークが厳しくなりまたね。

徳光:
2年生のとき甲子園で名をはせた小松辰雄という存在、アイデンティティがしっかり根付いて3年生を迎えたわけですけど、3年のときは春も夏も初戦敗退なんですよね。

星稜高校は初出場となった1977年のセンバツでは初戦で滝川(兵庫)に4対0で敗戦。2年連続出場となった夏の甲子園でも初戦で智弁学園(奈良)に2対1で敗れた。小松氏は3年生のときに甲子園で勝利をあげることができなかった。

小松:
春のときは肩を痛めていて足首も捻挫してたんですよね。
2日目の第4試合だったんですけど、試合の途中からナイターになったんですよ。それまで、ナイターなんて考えたことがなかったんですけど、キャッチャーのサインを見ようとしても、よく見えないんですよね。目があんまり良くなかったんですよ。それで慌てちゃったんです。「あれっ、あれっ、あれっ」って思っている間に4点取られて4対0で負けちゃったんですよ。

徳光:
夏は智弁学園(奈良)の山口哲治投手(のちに近鉄・南海)と投げ合った。これも名勝負でしたよね。

小松:
そうでしたね。このときは初日の第3試合で、試合前にブルペンに行ったらキャッチャーが来ないんですよ。どうしたんだって待ってたら、やっと外野手が普通のグローブを持ってきたんです。後からキャッチャーが来て投球練習をやったんですけど、完全にウォーミングアップ不足なんですよね。

徳光:
そのキャッチャーは何をしてたんですか。

小松:
あいつ、何してたんですかね。一つ下で2年生のやつなんですけどね。
それを智弁の高嶋(仁)監督が見てたらしいんです。後から聞いたんですけど、「点を取るなら早い回と思った」って。それで1回、2回に1点ずつ取られたんですよ。

徳光:
それで敗れたわけだ。

星稜高校を率いていた山下智茂氏は、春夏あわせて25回の甲子園出場をほこり、小松氏だけでなく松井秀喜氏など多くのプロ野球選手を育て上げた。箕島高校(和歌山)との延長18回の死闘や松井氏の5連続敬遠など数々のドラマを生み出した名将として知られている。

徳光:
星稜の山下監督はどういう監督でいらしたんですかね。厳しかったですか。

小松:
それは厳しいですよ。背は小さいんですけどね。みんなグラウンドへ行ったら、まず親指を出しながら、「これ、どうだ?」と聞くわけですよ。「機嫌はどうだ?」っていう意味なんです。

徳光:
なるほど、ボスの機嫌。

小松:
「今日は機嫌いいぞ」とかね。

徳光:
そうですか(笑)。

小松:
でも、よく家に呼んでごちそうしてくれたりしましたね。町に連れてってくれて中華料理を食べさせてくれたりもしました。

徳光:
松井秀喜さんにとっても怖かった存在だったんですかね。

小松:
いや、松井のときはそうでもないんじゃないですかね。松井が入ったときには「今年、ええやつ入ったぞ!」って言ってましたね。

ドラフト2位指名に「大学行きます」

徳光:
甲子園に3回出て、小松さんの頭の中では高校卒業後の進路はプロ一筋になってくるんですかね。

小松:
そうですね。甲子園に出てから「あ、行けるかな」という感じになって…。スカウトの方も来られましたしね。

徳光:
プロ野球が一気に近くなりますよね。そうするとかなりの球団から打診があったわけですよね。

小松:
そうですね、ほとんどの球団が来ましたね。

徳光:
大学進学の話はなかったんですか。

小松:
行くなら駒澤でした。

徳光:
山下さんの母校ですね。

小松:
よく夏休みに駒澤大学の選手が教えに来てましたしね。

徳光:
じゃあ、その頃は揺れてたんですか。

小松:
いや、頭の中ではプロしかなかったです。大学っていうのはなかったですね。

1977年のドラフト会議で小松氏は中日から2位指名を受ける。しかし、すぐに入団決定とはならなかった。

小松:
絶対1位だと思ってたんですよ。

あのときは、一番くじを引いたところから順番に指名していったんですよ。

徳光:
そうでした。中日は後半でしたね。

小松:
あの年は江川(卓)さんと同じドラフトなんですよね。クラウンライター(現・西武)が一番くじを引いて、もちろん江川さんに行ったんですよ。中日は12番くじだったんです。それでも指名されない。中日は12番くじだから12番目の選手と13番目の選手を一緒に取れるわけなんですよ。

徳光:
そうでしたね。1巡目最後の球団が2巡目は指名が1番目になるんですよね。

小松:
そうなんです。中日の1位は日鉱佐賀関の藤沢公也さんだったんですよ。それまでドラフトで4回指名されて4回とも入団を拒否してた。それで藤沢さんを1位にして私が2位だったんです。

徳光:
なるほど。

小松:
私は2位というのが納得いかなかったんです。やっぱり面白くないですよね。そのときの記者会見の映像があるんですけど、見るとブスッとしてましたからね。

徳光:
(笑)。

小松:
その日の夜に中日のスカウトの方から、「指名したからお願いします」って連絡があったんです。「いや、大学に行きますからもう来ないでください」って言っちゃいましてね。

徳光:
その人に。

小松:
「大学に行って1位で指名される選手になりますから、もう来ないでください」って言っちゃったんですね。次の日、高校に行って山下監督に「僕、駒澤に行きますからお願いします」って言いました。そしたら、次の日、(駒澤大学の)太田(誠)監督が金沢まで飛んできましてね。「そうか、じゃあ一緒にやるぞ」って言われて「お願いします」って言いましたからね。

徳光:
もう駒大で決まりじゃないですか。

小松:
そしたら、今度はドラゴンズのほうがスカウトを法元(英明)さんに変えてくるわけですよ。法元さんが来たら今度は太田監督が来る。法元さんは金沢に1カ月くらいいましたからね。

徳光:
ええっ。

小松:
まあ、元々はプロに行きたかったわけだし、法元さんに説得されて、「じゃあ、プロへ行く」ということになったんです。それで、山下監督のところに言いに行ったわけですよ。そしたら、「じゃあ、お前、自分で太田監督に電話しろ」と言われて、「やっぱりプロでやらしてもらいます」と自分で電話しました。そしたら、太田監督も「じゃあ、早く(一軍の)ユニホームが着られるように頑張れ」ということを言ってくれましたね。

徳光:
太田さんが。

小松:
「早く一人前になれ」ってことを言ってくれましたね。

【中編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 25/5/27より)

「プロ野球レジェン堂」
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