丸一日近く海上を漂流し、力なく波間に浮かぶ男性。近くの船上から見下ろしていた兵士は銃を取り出し、無抵抗の男性に銃弾を浴びせかけた。絶命した男性の遺体は、ライフジャケットを頼りに浮かんでいたが、兵士はその遺体にガソリンをかけ、火を放った。

韓国国防省が説明した朝鮮人民軍兵士による韓国人男性射殺事件の概要は上記のような凄惨な内容だった。武器を持たない無抵抗の人間を射殺し、遺体を燃やすという行為に、韓国国民は戦慄した。ところがその雰囲気は事件発生から3日後の9月25日に一変する。北朝鮮の金正恩委員長の「謝罪」が記された書簡が北朝鮮から届いたのだ。

北朝鮮の最高指導者が韓国に対して率直な謝罪を伝えたのは極めて異例な事だ。

金委員長の謝罪の言葉は「悪性ウイルスの脅威で苦しんでいる南側の同胞に、助けどころか私たち側の海域で思いがけずかんばしくないことが発生して、文在寅大統領と南の同胞に大きな失望感を与えたことについて、非常に申し訳ないと考える」というものだった。

異例の謝罪をした金正恩委員長
異例の謝罪をした金正恩委員長
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なぜ金委員長は謝罪したのか?長年北朝鮮の情報機関に所属し、金正日総書記の指示で作戦計画を立案した経験もある高位脱北者の男性に分析を依頼した。なお北朝鮮の書簡全文の訳は、資料として末尾に掲載する。

よく練られた戦略

ーー北朝鮮の書簡から分かる事は?

高位脱北者:
謝罪の部分ばかりが注目されているが、北朝鮮は書簡の中で、「遺体を燃やした」との韓国国防省の説明について、「浮遊物を燃やしただけ」と否定している。また被害者をあくまで「不法入国者」と呼び、被害者が不審な行動を取ったなどと主張しながら、射殺自体は海上警戒規則による規定通りだったと強調している。遺体を燃やすという野蛮なイメージの拡散を止め、事件のきっかけが韓国人による不法な越境であり韓国側の責任を前面に押し出す形になっている。

射殺された韓国海洋水産省の男性職員が乗っていた漁業指導船(画像:韓国海洋水産省)
射殺された韓国海洋水産省の男性職員が乗っていた漁業指導船(画像:韓国海洋水産省)

ーーなぜ金委員長は謝罪したのか?

高位脱北者:
「申し訳ない」という謝罪の気持ちを相手に伝えるよりも、韓国国民に対して「金委員長は人徳がある」というイメージを拡散させるために利用したと分析することができる。今回の書簡を一言で要約すれば「申し訳ない」という話を前面に出しながら、南北関係を主導するのは北朝鮮であり、その主人は金正恩委員長であるという点を表面化させた。同時に、北朝鮮はコロナと自然災害の中でも正常に機能しているということを見せる意図がある。つまり「謝罪」ではあるが「謝罪が目的ではない」と言える。

よく練られた戦略で「キジも食べ、卵も食べる(※一挙両得のこと)」という北朝鮮のことわざにぴったり合う戦略にみえる。

ーーハノイでの米朝首脳会談が決裂して以降、北朝鮮は韓国を無視してきた

高位脱北者:
金委員長は2019年4月の最高人民会議で文大統領を「差し出がましい人物」として公の場で指摘した後、今日まで南北関係を一切遮断してきた。また「茹でた牛の頭も笑う(※相手を馬鹿にする言葉)」などと、口にすることも憚られるような悪口を日常的に言ってきた。そしてついには南北連絡事務所を爆破する極端な行為に至った。これは金委員長が米朝首脳会談の過程で感じた文大統領に対する怒りが爆発したためと分析される。要は、文大統領を「口蜜腹剣(※口には蜜を塗り、腹には剣がある。表と中身が違う事の例え)」な人物だと評価している。

金委員長が「口蜜腹剣」な人物と評価する文在寅大統領
金委員長が「口蜜腹剣」な人物と評価する文在寅大統領

金委員長は文大統領に騙された怒りを今も解消していない。おそらく金委員長は、今回の機会を利用して、南との和解ではなく、朝鮮半島の統治者としての確固たる権威は自分にあるという事、そして同胞愛的な人間味を持つ人物であることなどを、自然な形で韓国側に刻みつけようとしたのだろう。

韓国は今回の契機を逃さず、凍りついた南北関係を復元する良い糸口を見つけたと考えるだろう。しかしこれは誤算だ。

これから韓国国民の間では、金委員長の「申し訳ない」との発言の評価を巡り、国論が割れることになる。韓国内の分断は一層深刻化されるだろう。文在寅政権は対北朝鮮平和路線を維持し、両首脳は「親密な関係」だと宣伝して正当化しようとする。それはかえって金委員長の韓国での地位を高める機会になるだろう。これが、北朝鮮が狙う対南戦略の基本だ。北朝鮮は今回のアクシデントを上手く乗り越えたと考えているだろう。

2018年9月の首脳会談時には笑顔で手を握り合っていたのだが…
2018年9月の首脳会談時には笑顔で手を握り合っていたのだが…

南北首脳が交わした「親書」の意味

今回の「謝罪」書簡とは別に、北朝鮮が立て続けに台風被害に見舞われた9月初頭、文大統領はお見舞いの親書を金委員長に送っていた。そして金委員長からも文大統領に対して、新型コロナウイルス対策などで苦労が続いているだろうとのねぎらいの返信があった事を韓国大統領府は明らかにしている。射殺事件の以前から、北朝鮮は韓国に接近しようとしていたのか?この点についても高位脱北者の分析を聞いてみた。

ーー9月初頭に、南北首脳が密かに親書を交換していた。この意味は?

高位脱北者:
これもやはり金委員長と文大統領の関係が親密であることを示すものではない。南北関係の冷却を何とかしたい文大統領の一方的な願いに対し、金委員長が肯定的に回答しただけだ。現在の南北関係で、より切迫感を持って改善を目指しているのは、南北平和路線を優先する文大統領だ。金委員長は、南北関係が悪くなろうが良くなろうが、内部的に何の影響も無い。

しかし文大統領は違う。政治的な死活問題だ。従って文大統領が金委員長にすがる形になる。根本的に政治的関係が不均衡なため、常に金委員長が主導的立場になるのは当然だ。従って、現在親書が行き来しているとしても、金委員長が「上」の位置になる。親密な関係に基づいた親書ではない、実務的な次元と言える。北朝鮮は常に全面的に韓国を無視する戦略を取っている。核武力を持っている今の金委員長はさらに強硬だ。

ーー今後南北関係が改善する可能性は?

高位脱北者:
力の均衡関係を中心に置いて戦略を整える金委員長としては、3回の首脳会談で文大統領に会って感じた「後悔」が簡単に消える事はない。南北関係が正常化するのは簡単ではないと見られる。北朝鮮としては米朝関係に全ての力を注ぎながら、それに必要な範囲での韓国の支援をキープする程度の関係を維持しようとするだろう。すなわち南北は互いに深く干渉せずに、必要最小限の目的のための金委員長と文大統領の関係が成立すると予想できる。

資料:北朝鮮が韓国に送った書簡

大統領府宛

貴側が報道したように去る22日夕方に黄海南道(ファンヘナムド)康寧郡クムドン里の沿岸水域で正体不明の人員1人が北朝鮮の領海深くに不法侵入し、北朝鮮の軍人によって射殺(推定)される事件が発生しました。事件経緯を調査したところによれば、北朝鮮側の該当水域警備担当軍部隊は、漁労作業中だった北朝鮮の水産事業所操業船から「正体不明の男1人を発見した」という申告を受けて出動した。康寧半島の前の沿岸で、浮遊物に乗って不法侵入した者に80メートルまで接近して身分確認を要求したが、初め1、2回「大韓民国の何々」とごまかし、それからずっと返事をしなかったということです。

北朝鮮軍人の取り締まり命令にずっと口を閉じて応じなかったので、さらに接近して2発の空砲を撃ったところ、驚いてうつ伏せになって正体不明の対象が逃走するような状況になったということです。一部軍人は陳述で、うつ伏せになって何かを体にかぶるような行動をしたのを見たといいました。北朝鮮軍人は艇長の決心の下に、海上警戒勤務規定が承認した行動準則により10余発の銃弾を不法侵入者に向かって射撃した。この時の距離は40~50メートルだったといいます。射撃後に何の動きも音もなく、10余メートルまで接近して確認・捜索したが、正体不明の侵入者は浮遊物の上におらず、多量の血痕が確認されたといいます。北朝鮮軍人は不法侵入者が射殺されたと判断し、侵入者が乗っていた浮遊物は国家非常防疫規定により海上現地で焼却したと話しています。現在まで私たちの指導部に報告された事件の調査結果は以上です。

私たちは貴側軍部が何の証拠を基に、私たちに対し不法侵入者取り締まりと取り締まり過程の解明に関する要求もなく、一方的な憶測で蛮行・応分の代価などのような失礼で対決的色彩が深い表現を選んで使っているのか、大きな遺憾を表明しないわけにはいきません。 私たちの指導部は「起きてはならないことが起きた」と評価して「このような不祥事が再発しないように海上警戒監視と勤務を強化して、取り締まり過程にささいなミスや大きい誤解を呼ぶことができることがないように、これからは海上での取り締まり取り扱い全過程を収録する体系をたてなさい」と指示しました。

私たちは南北の関係に明らかに望ましくない作用をするはずのことが北朝鮮側の海域で発生したことに対し、貴側に申し訳ない心を伝えます。私たちの指導部はこのような残念な事件によって、最近少ないけれど積み重ねてきた南北間の信頼と尊重の関係が崩れないように、より一層緊張して覚醒して、必要な安全対策を講じることを繰り返して強調しました。

国務委員長金正恩同志は「そうでなくても悪性ウイルスの脅威で苦しんでいる南側の同胞に、助けどころか私たち側の海域で思いがけずかんばしくないことが発生して、文在寅大統領と南の同胞に大きな失望感を与えたことについて、非常に申し訳ないと考えるとの意思を伝えなさい」と言いました。

起きた事件についての貴側の正確な理解を望みます。

朝鮮労働党中央委員会統一戦線部

2020.09.25

【執筆:FNNソウル支局長 渡邊康弘】

渡邊康弘
渡邊康弘

FNNプライムオンライン編集長
1977年山形県生まれ。東京大学法学部卒業後、2000年フジテレビ入社。「とくダネ!」ディレクター等を経て、2006年報道局社会部記者。 警視庁・厚労省・宮内庁・司法・国交省を担当し、2017年よりソウル支局長。2021年10月から経済部記者として経産省・内閣府・デスクを担当。2023年7月からFNNプライムオンライン編集長。肩肘張らずに日常のギモンに優しく答え、誰かと共有したくなるオモシロ情報も転がっている。そんなニュースサイトを目指します。