日本の主力ロケットとして高い打ち上げ成功率を誇るH2Aロケットロケットが、50号機をもってその役目を終える。H2Aロケットはこれまで、打ち上げ基地のある鹿児島・種子島の人々にもさまざまな価値をもたらした。その歩みをたどってみた。

感謝のメッセージとともに最終号機が宇宙センターへ

2024年9月。種子島・南種子町の夜道に人だかりができていた。H2Aロケット50号機を載せた巨大なコンテナが宇宙センターに運ばれる様子を見ようという人たちだ。多くの人がスマホを構え、その瞬間を撮影していた。コンテナには「初号機以来長きにわたるご声援とご協力誠にありがとうございます」というメッセージが。待っていた。「震えちゃった。なんか感動して」と興奮して話す女性。「打ち上げを見に行くの?」という問いに「はい、絶対見に行きます!」という少年。みんな笑顔だった。

H2Aロケット50号機を載せた巨大なコンテナ
H2Aロケット50号機を載せた巨大なコンテナ
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打ち上げコスト大幅ダウン 部品の一部は海外製に

2001年8月、初号機が打ち上げられたH2Aロケット。国際競争力の強化を目指して開発された。それまで運用されてきたH2ロケットを改良したその最大の特徴は大幅なコストダウン。「純国産」にこだわっていた部品の一部を海外製に変えるなどして打ち上げコストをH2の半分ほどに抑えることに成功した。

2001年8月、H2Aロケット初号機が打ち上げられた
2001年8月、H2Aロケット初号機が打ち上げられた

「うちの敷地で撮影?」「いや見学場ですよ」地元写真家がとらえ続けた打ち上げ

この歴史的な打ち上げを当時、現地で撮影していのが、南種子町で写真館を営む京極義一さん。一番よく撮れたという1号機の写真について「これを売っていたときにJAXAから『内緒でうちの敷地内で撮ったんじゃないですか?』とお尋ねがあった」と振り返る。JAXAが「おーそう思ったか!?」と思いながらも「いえいえ違いますよ。(多くの見学者が訪れる)恵美之江公園です」と答えたという。

京極義一さん
京極義一さん

JAXAをもうならせた京極さん。H2Aロケットの全ての打ち上げを写真に収めてきた。中でも印象に残るというのが2003年11月に撮影された6号機だ。

「ミッション達成の見込みなし」失敗からの再起に担当者も涙

政府の情報収集衛星を搭載した6号機。打ち上げ当日は雲が厚く、ロケットの機体は打ち上げ後すぐ雲の中に消えたが、当時の取材班は、成功を重ねていたH2Aだけに、今回も大丈夫だろう、という雰囲気だったと振り返る。

2003年11月、6号機が打ち上げられた。しかし…
2003年11月、6号機が打ち上げられた。しかし…

ところが打ち上げから約11分後、宇宙センターに衝撃のアナウンスが流れた。

「ロケットはミッションを達成する見込みがないとの判断から指令破壊信号を送信しました」

H2Aロケット初めての打ち上げ失敗。プレスルームは大騒ぎとなった。記者会見に臨んだ当時のJAXA理事長は、憔悴しきっていた。

H2Aロケットとして初めての打ち上げ失敗だった
H2Aロケットとして初めての打ち上げ失敗だった

実は現場で見えていなかった6号機

京極さんが撮影した6号機打ち上げの瞬間。真正面からの迫力ある機体の姿を見事にとらえている。ところが京極さんは意外なことを口にした。「実際は見えてなかったんです。雨が降ってて」帰ってきて現像したら「写ってるやん(笑)」。

京極さんが撮影した6号機打ち上げ瞬間の写真
京極さんが撮影した6号機打ち上げ瞬間の写真

この写真を買う人は多かった。「普段の打ち上げより2~3割増し。打ち上げに失敗したため写真が出回らず『欲しい』と。自分も関わっているしという人もいる」京極さんはこう証言した。

6号機は固体補助ロケット1基が分離せず失敗

6号機は、第1段ロケットに装着された2基の補助ロケット(SRB-A)の1つが予定通り分離しなかった。分かりやすく言えば余分な “おもり”が1個ついたまま飛行する形となり、本来衛星を分離する軌道に達することができなかったのだ。補助ロケットは火薬の力で分離されるが、この時は高温のガスで導火線の配線が切れてしまい正常に動作しなかったのが失敗の原因だった。

成功しても、失敗しても注目を浴びる宇宙への挑戦。それから約1年3カ月後、技術者たちが再起をかけた7号機は、気象観測と航空管制に利用される運輸多目的衛星(ひまわり6号)を搭載し、見事、打ち上げに成功した。当時の担当者は会見で「最後の衛星分離で大喜びすることができた」と、声を震わせた。

技術者たちが再起をかけた7号機
技術者たちが再起をかけた7号機

ここからH2Aロケットは進化や挑戦を重ねながら49号機まで連続して打ち上げに成功している。成功率実に約98%。世界最高水準だ。打ち上げのペースも上がり、H2Aは単純計算で年間2回以上打ち上げられてきた計算となる。他のロケットと比較してもその多さが分かる。

成功率とともに打ち上げ頻度が高いのが特徴だ
成功率とともに打ち上げ頻度が高いのが特徴だ

「ロケットがなければ島に帰ってこなかった」多大な経済効果も

打ち上げ回数が増えた分、地元種子島には多くの経済効果ももたらされた。

南種子町が指定する4つの見学場には1回の打ち上げで町の人口の約4割にあたる約2000人が訪れてきたという。地元の宿泊施設オーナーは「毎回客がいっぱい来る。ロケットの打ち上げがあるたびに満室」と話す。高校から種子島を離れたこのオーナー、宇宙センターがなかったら、同じ仕事をしていたか?という記者の問いに「多分やっていない。たぶん種子島に帰ってこなかった」と、きっぱりと答えた。

4つの見学場には、町の人口の約4割にあたる約2000人が訪れるという
4つの見学場には、町の人口の約4割にあたる約2000人が訪れるという

地元の飲食店関係者も「ロケットがなかったら、本当の離島に等しいのでは?宇宙センターがあるから(観光客が)来る。こんなに飲食店や宿泊施設はない。ロケットにあやかっての南種子の経済効果、成長は計り知れないものがあるのでは」と、ロケットの大きな恩恵を感じていた。

一ファンから伝える側へ 「現地特派員」として活躍する人も

ロケットに魅了され人生まで変わった人もいる。

物心ついたときからロケットが身近だったという崎田善昭さん(57)。地元、南種子町で農業をしながらロケットの撮影をしていた崎田さんに転機が訪れたのは約10年前だった。

崎田善昭さん
崎田善昭さん

南種子町の島間港で、ロケットを積んだコンテナを船から降ろす様子を撮影していた崎田さん、ロケットの打ち上げや記者会見の配信を行う「NVS」の関係者と知り合いになった。

そして「種子島の現地特派員として所属してください」とスカウトされ、一ファンからロケットを伝える側へと転身した。

撮影のみならず記者会見を取材することもある崎田さん、「NVSに入ってよかった。普通の人が見られないところを見られたり、なかなか普段は話を聞くことができないプロジェクトマネージャの話を聞けるのでやはりうれしい」と話す。H2Aロケットについては「よくここまできたなあっていう感じ。これまで連続成功してきたので最後に関してもうまく打ち上げてほしい。有終の美を飾っていただきたい」と期待を寄せた。

「平常心で撮らないと」期待を胸に切るシャッター

写真館の京極さんにいつもの撮影スポットに案内してもらった。この日は晴天。望遠レンズのついたカメラを発射台に向けながら京極さんは「当日もきょうぐらいの天気だといいんだけどね。まず平常心で写真撮らないとね。期待に応えないといけないので」と気を引き締めていた。

京極さんは最終号機もここからカメラを向ける
京極さんは最終号機もここからカメラを向ける

H2Aロケット50号機は当初、2025年6月24日未明の打ち上げが予定されていた。しかし打ち上げを担当する三菱重工は「第2段機体の電気系統に確認が必要な事象が認められた」として、打ち上げの延期を発表した。新たな打ち上げ日は決まり次第発表される予定だ。

日本の宇宙開発の技術をより確かなものにしたH2Aロケット。多くの人の思いを乗せ、有終の美を飾ってほしいものだ。

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