「中国残留孤児の家」。この看板が掲げられた建物に入ると、すぐに中国語が聞こえてくる。地下にある教室では、女性たちが今度披露するという劇に向けて、ダンスの練習にいそしんでいる。

ここは、戦後、異国に取り残された「中国残留日本人」が集まる「NPO法人・日中友好の会」だ。日によって、日本語教室などが開かれているほか、医療・介護や就職で困った場合など、問題解決の手助けを行っている。このNPO法人を設立したのは、自身も「中国残留日本人」である池田澄江さん(80)だ。

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中央に立つ女の子と、左右に両親が映る白黒写真。一見、ごく普通の一家3人の家族写真だが、女の子と両親に血縁関係はない。この写真に映る少女は当時11歳の池田さんで、中国で養父母と撮影したものだ。

「すごく大事に育ててくれました。小さい頃は、お母さんがずっと私の手を繋いでいて、本当にすごく優しい良いお母さんでした」

笑顔でこう話す池田さんは、生後10カ月で、実の両親と生き別れ、中国で育った。

池田澄江さん
池田澄江さん

池田さんの実の父親は、日本軍で会計担当をしていた軍人で、中国の東北部・旧満州に配置されていたが、敗戦後に連行されてしまったという。敗戦の混乱の中、実の母親は、5人の子どもを連れて旧満州を逃げ回ったが、食べ物はなく、日に日に衰えていった。母乳も出なくなり、一番年下で生後間もない池田さんが餓死してはいけないと覚悟を決め、現地の中国人に託すことを決めた。

池田さんは、母親から託された中国人の友人で、子どもがいなかった除さんという夫婦にひきとられた。池田さんは「除明(ジョ・メイ)」と名付けられ、夫婦に大切に育てられた。しかし、幼い頃は日本人であることを知らずに育つ中で、日本への敵意が自分に向けられる場面もあり、生きるには試練もあったという。

「小日本、鬼」「打倒、日本!」周囲から向けられた“憎悪”

「5歳の時に、一緒に遊んでいた子どもたちから「小日本、鬼」と呼ばれて。何のことかわからなかったんですよ。家に帰って、養母に「小日本、鬼」って何?と聞いた時は、養母からは「あだ名だから。気にしなくてもいい」と。自分のあだ名と思って、何も気にしていなかった。」

当時は自分が日本人ということを知らなかった池田さん。その後、小学校に入り、人生の道を左右する出来事があったという。

「7歳の時に小学校に入って、先生が生徒を連れて映画を見に行く機会がありました。日本と中国が戦争をする映画で、みんな日本人をとても憎み、突然、わたしの後ろで、ほかの生徒が、『打倒、日本!打倒、日本!』と叫んで、後頭部に唾も飛んできました。私は『どうして?私は日本じゃないよね』と、何が何だかわからなくなり、椅子の下に潜りこんだんです。映画が終わった時に、椅子の下で、目を真っ赤にして泣いている私を先生が見つけてくれたのですが、生徒たちが「日本は鬼だから」といって先生を取り囲んだ。でも先生は、みんなに向かって、『この子は子どもでしょう。映画に出ていたのは大人で、除明は関係ないじゃない。いじめはダメ!』と諭してくれた」

子どもたちが向けた敵意に対し、先生が自分の味方になりかばってくれた。このことがきっかけで先生という職業に夢を描き、「絶対にこんな先生になりたい」と決心して教師を志したという。そして、18歳でその夢を叶え小学校の教師になった。

池田澄江さんと筆者
池田澄江さんと筆者

一方で、自分が日本人だと知ったのは8歳の時だった。公安の局員が自宅を訪ねてきた時に、養母から知らされたという。

1972年に日本と中国の国交が回復し、「中国残留日本人」の肉親捜しが始まった。池田さんも、中国に来た新聞記者と出会い、自身の記事を執筆してもらった。記事は日本で発行されて「自分の娘ではないか」とする男性が現れ、面会のために来日したが、DNA鑑定で血縁関係は否定された。

養母と池田さん、池田さんの子どもたち 
養母と池田さん、池田さんの子どもたち 

手がかりを失いビザの有効期限が迫る中、支援してくれる弁護士と出会い、戸籍や日本国籍を取得した。池田さんは夫と子どもたちと日本に永住帰国して、お世話になった弁護士の事務所でほかの人たちの戸籍取得を手伝いながら、家族の手がかりを探し続けた。

池田さんが帰国したことに養母は、『誰でも自分を産んだ親を知りたいし会いたい。見つかったらすごく良いことじゃない』と言って、快く日本に送り出してくれたという。しかし、養母は池田さんの肉親が見つかる前の1987年に亡くなった。

「妹を捜している」ある女性との出会い

日本に来てから10年以上がたった1994年。肉親捜しのため「中国残留日本人」が集まる東京・代々木の会場の喫茶店で、2人の女性に話しかけられた。女性たちは、「50年前に中国に残してきた妹を捜している」という。話を聞くと、妹を託した中国人の名前、預けた場所、時期など共通点が多かったことから、DNA鑑定を実施した。

「99.999%。9が5つ。(血縁関係が)絶対間違いないと証明されました。自分が誰かわかって、自分の生年月日わかって、自分の家が分かってね。人生も半分がたった51歳で」

姉たちが、中国にいる池田さんの養父に会いに行った際(左から二番目が池田さん)
姉たちが、中国にいる池田さんの養父に会いに行った際(左から二番目が池田さん)

「池田澄江」という本名がわかったという喜びの一方で、実の母は、池田さんが姉たちと出会う半年前に亡くなっていたことも判明。池田さんは実の母との再会は叶わなかった。

「中国と日本、ずっと仲良くして戦争をしないでほしい」

2000年代に入ると、国が早期の帰国実現を怠り、帰国後も生活保障などの十分な措置をとらなかったなどとして、責任を問う動きが出始めた。この運動は、全国15地裁まで拡大し、帰国した孤児の9割、2200人以上が原告となった。

法律事務所に勤めていた池田さんは、運動のリーダーに押し上げられた。2007年、当時の安倍晋三首相が、基礎年金の満額支給など新しい支援策を決定したことで、原告は訴訟を取り下げ、裁判は終結した。

戦後80年を迎えた今年、池田さんは何を感じるのか。

「私は戦争に翻弄されました。もし戦争がなかったら私と家族、父母と兄弟たちはずっと一生幸せだったと思います。実の親の愛を私は一度も感じたことがないんです。養父母の愛はわかってるけれど。私は中国で生まれて、もし中国人が助けてくれなかったら、いまの命はないです。中国の養父母と、中国政府に感謝しています。日本は、自分の祖国です。自分の血が生まれたところ。中国と日本、ずっと仲良くして戦争をしないでほしい。戦争は、誰でも被害を受けるから。子供が亡くなって、親が泣いてる。親がなくなって、子どもが孤児になる。それ見ると戦争は絶対しない方がいいです」

「中国残留孤児の家」で友人たちとトランプを楽しむ池田さん 
「中国残留孤児の家」で友人たちとトランプを楽しむ池田さん 

そして、これからの課題についても言及した。

「残留孤児は、みんな80歳以上になりました。ほとんどの人はデイサービスが必要ですね。もしできたら、中国語対応で24時間滞在できるような介護施設があるといいです。そして、病院の通訳や、2世・3世が仕事を探すときの支援が必要です」

二つの国の間で戦争に翻弄されながらも懸命に生きた「中国残留日本人」。当事者が高齢化し、生きていく上で介護や補助が欠かせなくなってきている。日本社会の中で取り残されないように今後の支援のあり方についても考えていくことが求められている。
【取材・執筆:フジテレビ社会部 中澤しーしー】

中澤しーしー
中澤しーしー

フジテレビ報道局社会部記者。現在は厚生労働省担当。
これまで司法クラブで検察庁・国税庁を担当し、東京地検特捜部が捜査する事件などを取材。
早稲田大学法学部卒業後、2020年フジテレビ入社。
趣味は映画鑑賞。