東京・台東区に「中国残留孤児の家」と看板が出ている建物がある。中に入ると、中国語が飛び交い、トランプを楽しんでいる年配の女性たちもいる。ここは第2次世界大戦後、中国に取り残された「残留日本人」が集まる「NPO法人・日中友好の会」だ。

今年戦後80年を迎え、私は、自分の母のルーツでもある「中国」と関わりがある取材をしたいと思っていた。そこで、「中国残留孤児の家」を尋ね、二人の女性と出会った。

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「日本の降伏が発表された8月15日の夜は、非常に混乱していました。中国人は、日本人の家からすべての物を運び出すなどしていました。日本人は慌てて逃げ始めました。当時2歳ほどだった私は、このとき実の母とはぐれ、外の水たまり近くにいたところを、養母が見つけました。養母は『富山さんの家の子どもじゃないの!』と驚いたそうです。養母は、わたしの家にお手伝いさんとして来ていて、私のことを知っていました」

富山美恵さん(81)は、中国人の養母に助けられた夜のことを、振り返る。幼かったため記憶がなく、のちに養母から聞いた話だ。富山さんは、戦後、日本人の両親と生き別れ、中国で育った「中国残留日本人」だ。

富山さんとの出会い 

「中国残留孤児の家」を訪問した私に対し、職員は富山さんを紹介してくれた。友人たちと中国語で談笑していた富山さんは、職員に「話を聞かせてあげて」と言われ、恥ずかしそうにしつつも、過去の記憶を遡ってくれた。

富山さんは、1943年9月に生まれ、中国の東北部・旧満州に両親と住んでいた。1945年、中国には、国策で送り込まれた開拓団などおよそ155万人の日本人がいた。男性は徴兵されていたため、残された女性や子どもたちは、敗戦時の混乱の中、逃避行を余儀なくされた。

3度 手放そうと…最後は離さなかった手

当時2歳ほどだった富山さんも、母親とはぐれ、夜中に外の水たまり近くで、転んで泥だらけになっていたところを養母に助けられた。養母は、自分の家に富山さんを連れて行き、面倒を見た。しかし、家にはすでに4人の子どもがいた。生活が苦しかった上、日本人の子どもを育てることに葛藤していた養母は、日本人が避難する「難民収容所」に3度、富山さんを預けようとした。

「収容所では、管理する人も食べ物もなく、荒れていて、『2歳の子どもが生きてはいけない』と、養母は2度、私を連れて帰りました。しかし、3度目に私を収容所に連れて行ったとき、母と2番目の姉は、わたしをそこに置いていきました。私はワンワン泣きました。必死に泣き、その声が聞こえたのか、2人は戻ってきました。姉が養母に、『置いていくのをやめよう』と言いました。それ以降、収容所には連れて行かれることはありませんでした」

こう話す富山さんの声は、震えていた。

富山美恵さん
富山美恵さん

その後、養父が亡くなり、ほかの兄弟たちが成人していく中、富山さんは瀋陽で、養母と2人で暮らし、高校を卒業した。建設会社の工場で働き、中国人と結婚して二人の子どもも授かった。

しかし、再び二カ国の間で翻弄されることになる。1972年、日本と中国の国交が回復すると、「中国残留日本人」の来日がはじまり、中国国内でも身元調査がはじまった。

「今になって蒸し返すのかと、怖かった。どういう扱いになるかわからなかった」と当時を振り返る富山さんは、「日本政府も悪いようにはしないだろう」という兄弟の説得もあり、1986年に来日した。もっと早く来日することも出来たが、養母を最後まで看取りたかったため。中国に残った。

日本では、実の父親と再会することができたが、実母との再会はかなわなかった。戦後の混乱のあと、実母の消息はわからないままだった。再会した父には、最初どう接すればいいかわからなかったが、手紙を送り続けてくれる父の愛情を感じた。悩んだ末、夫と子どもと一緒に永住帰国することを決め、帰国後は、日本語を学びながら、スーパーなどで働いた。

「帰って良かったと、今は思える」

帰国後40年近くが経った富山さんに、日本に帰ってきて良かったと思うか、尋ねた。

「日本は発展していて、平等な国だとしみじみ感じます。最初は、戻りたいとは思っていませんでした。子どもと主人を連れて帰るのも大変だと思っていました。だけど、日本に戻って努力は必要でしたが、頑張って仕事をして、日々を過ごすことが出来ました。帰ってきて良かったと、今は思えます」

富山美恵さんと筆者
富山美恵さんと筆者

富山さんは、インタビューのあと、トランプをする友人たちのところに戻って行った。

厚生労働省によると、日本に永住帰国した「中国残留日本人」はおよそ6700人いる。「言葉の壁」や「生活習慣の違い」を乗り越え、日本社会になじもうと努力してきた人たちだ。しかし、時に、言語のストレスから解放され、同じ困難を分かち合ってきた仲間と、素になって話せる「居場所」が必要になる。「中国残留孤児の家」は、そんな役割を果たしてくれる。

後編では、「中国残留孤児の家」を創設し、自身も「中国残留日本人」として、帰国後、老後の生活保障を求め、立ち上がった女性の生涯に迫る。
【取材・執筆:フジテレビ社会部 中澤しーしー】

中澤しーしー
中澤しーしー

フジテレビ報道局社会部記者。現在は厚生労働省担当。
これまで司法クラブで検察庁・国税庁を担当し、東京地検特捜部が捜査する事件などを取材。
早稲田大学法学部卒業後、2020年フジテレビ入社。
趣味は映画鑑賞。