熊本・合志市にある国立療養所 菊池恵楓園の入所者自治会の会長・志村康さん(92)が5月1日夜に亡くなった。志村さんは、ハンセン病元患者の先頭に立って、隔離や差別の実態を伝え続けた。

15歳でハンセン病と診断され入所

志村康さんはTKUの過去の取材に「家族のほうが『私のきょうだいはハンセン病でした』、それが言える社会になってほしい」と話した。

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志村康さんは1933年、佐賀県に生まれ、15歳のときにハンセン病と診断されて、菊池恵楓園に入所した。

授かった子どもは堕胎を強制されるなどした中で、1965年に社会復帰。園の近くで養鶏業を営んだが、後遺症が悪化して、菊池恵楓園に戻った。

2023年に取材した際に、志村さんが「唯一の宝物なので」と話す仏像は、養鶏場の鶏を供養するために大切にしていたもの。社会復帰していたときの証しだという。

志村さんは「90歳になったので、(歴史資料館に)記念として飾ってもらえるのが、一番うれしい。歴史を語る。ずっと生き続けるので大変ありがたい」と語った。

国の人権侵害に謝罪と補償勝ち取る

志村さんは、らい予防法に基づく国の強制隔離政策で人権を侵害されたとして、ハンセン病元患者が国に損害賠償を求めた裁判では、原告団の副団長として参加。2001年、国の政策を厳しく断罪した熊本地裁判決が下され、国からの謝罪と補償を勝ち取った。

志村さんは「ここまで踏み込んだ判決が出るとは考えてなかった。本当にありがたい。日本にはまだ『司法が生きている』ということを実感した」と当時述べていた。

そして、2014年、入所者自治会の会長とハンセン病違憲国賠訴訟全国原告団協議会の会長に就任。元患者家族らが国に賠償を求めた『ハンセン病家族訴訟』では原告団を支援したほか、元患者の男性が『特別法廷』で裁かれ、死刑となった『菊池事件』をめぐる裁判では原告の一人として、男性の無実を訴えるなど精力的に活動した。

ハンセン病家族訴訟などで志村さんと一緒に裁判を闘った、国宗直子弁護士は「常に私たちを導いてくれる人だった。生きている年代の違いや困難な状況のなかで生き抜いてきたという生き方の深さの違いがあり、私たちはただただついていくしかなかった。残された菊池事件を一生懸命、やっていくしかないと思っている」と述べた。

国の誤った政策を未来に語り継ぐ活動も

また、誤った隔離政策や差別の実態を語り継ぐ活動にも熱心に取り組み、ハンセン病問題の啓発にも力を尽くした。

志村さんは「一番下の妹が生まれて間もなく、私は恵楓園に入所した。母親が亡くなって、初めて恵楓園に来てくれた。自分の妹でありながら60年も70年も会えない。そういう社会は、私はおかしいと思う」と、国の誤った政策が生み出した爪痕を自身の人生を振り返り語ってくれていた。

志村さんは2024年4月に体調を崩して入院していたが、5月1日午後10時半ごろ、肺炎のため亡くなった。92歳だった。

「差別に真っ正面から闘った闘士」

菊池恵楓園入所者自治会の太田明副会長は「ハンセン病差別に真っ正面から闘ってこられた闘士だったんじゃないですかね。先頭に立って原告団の代表として、この27年間、闘ってこられたので、ハンセン病問題の全面解決に向けて、すごく尽力された方だと思っていますし、全ての入所者、回復者にとっても大きな精神的支柱となったんじゃないでしょうか。人権回復とか人間回復にあたって非常にご尽力された。信念が強かったです」と話した。

菊池恵楓園の中に2012年に開園した『かえでの森こども園』、子どもを産み育てることが許されなかった入所者にとって、その存在は大きな心の癒しとなっている。子どもたちが元気に歌う園の歌。それは志村さんが作詞したものだ。

春はさくらの並木みち
お花のトンネル通ってきたよ
せんせいおはようございます
みなさんおはようございます
たのしい たのしい かえでの森こども園

志村さんの死去を受け、木村知事は「これまでの志村様の思いや活動をしっかりと受け止め、県としても差別や偏見のない社会の実現に向けて、引き続き取り組んで参ります」とのコメントを出した。

長く続いた差別・偏見の歴史と闘い続けた大きな存在だった。

(テレビ熊本)

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