2025年3月、沖縄県糸満市のガマ(自然洞窟)から那覇市にあった私立開南中学の校章が見つかったというニュースを放送し、遺族や関係者からの情報提供を呼びかけた。
その後、遺族会などからの連絡がありDNA鑑定の申請も行われた。若くして戦争に命を奪われどこで亡くなったかもわからない肉親への思いは80年が経っても変わらないと遺族は語る。
1936年に創設され、沖縄戦によりわずか9年で廃校となった私立・開南中学校の校章。

開南中学校から鉄血勤皇隊や通信隊に入隊し戦場で命を落とした学徒たちがいたが、公的な資料が少なく動員数や戦死者数は不明とされている。

校章が発見されたという特集の放送後、沖縄テレビに県議会議員の仲村家治さんから連絡があった。
仲村家治県議会議員:
慰霊祭にはずっと参加していたのですが、私が小さいころはその意味をよく理解していませんでした。父が亡くなる5、6年ほど前から開南中の慰霊祭を手伝うようになりました

戦没した仲村さんの叔父にあたる仲村渠善正(なかんだかり ぜんせい)さんは開南中学の7期生で。仲村さんは父親から引き継いで遺族会の役員を務めている。

仲村家治県議会議員:
当時も今もそうなのですが、実際には開南中学というのは学徒という認識では捉えられていないんです。一度学校が閉鎖されていて組織的な動員があったことが学徒らしいと言われていますが、個別に行動していた場合はそうではなかったようです
一家で北部に疎開するため住んでいた那覇市宇栄原から移動を始めていたが、学徒として戦場に行くことを善正さんが決断したことで、母親と親戚2人は疎開をやめて引き返し、善正さんは軍に入隊した。
仲村家治県議会議員:
結局、おばあちゃんだけが生き残ったんです。それも南部のどこを逃げ回ったのかはわからないのですが。そういった経緯もあって、うちのおばあちゃんは「強引にでも連れて行けばよかった」と話していました
叔父がどこの部隊に所属していたのかについては記録も証言もなく、いまだにわかっていないという。
仲村県議の妹 平八重子さん:
少しつながった感じがします。父の兄なので家には写真なども何もなかったのですが、これを見ると少しは青春時代を生きていたのだと感じますね

校章を発見した遺骨収集ボランティアの浜田哲二さんと律子さんはこの日、那覇市に住む88歳の男性を訪ねた。

金城善忠さん:
当時は小学校に通うのも大変で資金が必要な状況でした。中学校まで出ると教育はすでに日本の軍国主義一色で、そのため兵隊と行動をともにするようなことになったのです

沖縄戦当時8歳だった金城善忠さんは捕虜となり生き延びたが、開南中学に通っていた兄の善尚さんのほか、姉や幼い妹たちを戦場で亡くした。

金城善忠さん:
この”きよこ”というのは生まれてだいたい4、5カ月くらいだったと思います。母親が栄養失調で母乳が出なかったことで亡くなりました。ひさこさんは4歳くらいだったでしょうか
家族と一緒にいた兄妹たちがどのように亡くなったかは記憶している一方で、軍とともに行動した兄の最期については何一つわかっていない。
善尚さんの名前は2019年に国立公文書館に収蔵されている名簿から見つかった。

浜田律子さん:
どこに所属していたかということが書かれているんです。第24師団の司令部と記されているような感じなんです
兄がどこで亡くなったのか、戦後生き残った兄弟とともに調べようとしたものの難航した。
金城善忠さん:
墓には魂だけで遺骨はありませんでした。一時期は遺骨を探していましたが、諦めているような状態でした。両親は『いつ何どき帰ってくるのではないか』とよく話していましたよ
今回、校章と一緒に見つかった遺骨は兄のものなのではないか。見つかったガマの様子について金城さんは浜田夫妻に熱心に尋ねていた。

浜田律子さんが「やっぱりお兄さん、生きていてほしかったですよね?」と問いかけると、金城さんはうつむきながら悲しそうに「そう……」とつぶやいた。

沖縄戦で若くして命を落とした兄を供養してあげたいと、遺骨とのDNA鑑定を申請した。
(沖縄テレビ)