事件前後の教団幹部の動き
まず教団の“建設大臣”こと早川紀代秀元死刑囚については、長官事件当日30日早朝、上九一色村から教団幹部の矢野隆(仮名)を乗せて専用車センチュリーで移動。何度も述べるが、矢野は長官銃撃事件当日の発生直後に南千住警察署近くで目撃された「危ない自転車の男」に似ているとして名前が上がった男だ。矢野だけが千代田区麹町3丁目で車を降りたという。

早川はそのまま専用車で「世界統一通商産業 日本秘密ニコラ・テスラ協会」なるオウム関連団体の事務所がある赤坂のビルに向かった。

矢野が95年4月6日に逮捕されたのがこのビルだ。これらの事実は早川専用車の運転手が証言している。

その後、早川は赤坂のビルで運転手を降ろし、自らハンドルを握ってどこかへ出かけて行ったという。事件発生後の午前9時半過ぎには教団がアジトにしていた墨田区吾妻橋のマンションで、住民が早川らしき男を目撃している。それ以降は午後3時台に文京区春日町や本郷三丁目でAVI(車両番号読み取り装置)にヒットするまで足取りは不明だ。矢野の足取りも麹町3丁目で早川専用車を降りてから判っていなかったが、夕方ごろは上九の施設に戻っていたことが確認されている。
井上嘉浩は林泰男とともに川越のウィークリーマンションにいた。
Xが入信するきっかけとなった教団幹部の島田理恵子(仮名、*第15話-3参照)の足取りは不明で、井上の運転手である平岩聡(仮名)はアメリカにおり、銃撃現場にいたとXが名前を挙げた田上健(仮名)は、三重県内の信者の家に滞在していたことが確認される。

坂本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件の実行犯で、95年7月に逮捕された端本悟元死刑囚はどうだろうか。
端本は地下鉄サリン事件や長官銃撃事件前の95年2月、ユーゴスラビア人発明家、ニコラ・テスラがかつて考案したとされる地震を発生させる装置について情報収集するためユーゴスラビアに派遣されていた。話は少し脱線するが、このユーゴ派遣は大規模テロを計画していた麻原からの密命を帯びていた可能性があるためここで触れる。