サブカルチャーの街、下北沢には今、古着販売での成功を夢見る若者たちが「一旗あげよう」と全国から集まっている。
古着店の数はこの5年で倍増し、今や200軒以上。さながら、金脈を探し当てて一攫千金を狙った採掘者が集まったゴールドラッシュのようだ。
その背景には、フリマアプリの台頭やリユース&リサイクル店の増加に加え、Z世代を中心にサステナブル(持続可能)志向が強まっており、古着をファッションに取り入れる人が急増していることがあるという。
その結果、いまや古着は成長産業。2023年の市場規模は、推計1兆1500億円(出典:矢野経済研究所/ファッションリユース(中古)市場規模推移・予測より)で、前年比113.9%という驚異的な成長を遂げている。
古着ブームの現状を取材するため、古着の聖地・下北沢の街を回った。
仕入れこそが古着屋の命
2024年6月。下北沢は若者でごった返していた。
駅前に旗艦店を構える下北沢一の繁盛店「DESERT SNOW(デザートスノー)」の店内は、学生やカップルで大混雑。貴重なヴィンテージ古着の販売会では、デニムジャケット一着330万円、ジーンズ一着550万円という高値にもかかわらず、飛ぶように売れていく。
購入した客は「自分で着るために買った。時間と歴史を買っているような感じ」と、古着に壮大なロマンを感じているようだ。
そんなデザートスノーのオーナーは、下北沢で13の古着店を経営する鈴木道雄さん(46)。事務所には数々の競走馬の写真が飾られ、古着業の傍ら、馬主も務める。
1998年に東京・町田市で創業した鈴木さんは、2016年に下北沢に進出。そこから古着ブームの波に乗り、わずか9年で、全国に30の古着店を展開。古着で年商32億円を稼ぐ成功者となった。
「仕入れこそが古着屋の命」と語る鈴木さんは、月に1回、2万5000着、計20トンもの古着をパキスタンから輸入する。
今から25年前、アメリカ古着の高騰に悩んだ鈴木さんは、アメリカから支援物資や廃棄物として古着が送られていたパキスタンに目をつけたのだ。まだ日本人がほとんど出入りしていない中、一から現地のディーラーと関係を築き、ルートを開拓していった。
引き取り手がいない余剰品など不要となった大量の服の山から宝を見つけ出すのが、古着屋の腕の見せ所。鈴木さんは今でも、月の半分はパキスタンから古着を経由させるタイの自社倉庫に飛び、1日12時間以上、自ら商品のピック(選別)を行う。
こうした中に、稀に1着で数十万円もするヴィンテージ古着が出てくるのだ。通常の古着もヴィンテージも仕入れ価格は同じだと言う。
「毎日が勝負」 採算度外視の仕入れも
鈴木さんのように古着での成功を夢見る若手オーナーはいないだろうか――。
そんな思いで下北沢の古着店を訪ね回ること1カ月。出会ったのが「下北沢で古着屋をやるのが子どもの頃からの夢だった」と語る宝(たから)さん(34)だった。

宝さんは23歳の時に北海道から上京し、そこから11年かけて下北沢に念願の店を開いた。さらに2024年6月には2店舗目となる「MIMIC(ミミック)」をオープン。
ミミックがあるのは、駅から徒歩4分の雑居ビルの3階。建物には階段しかなく、怖いもの見たさに息を切らしながら店の扉を開けた。
「偏愛」と言えるほど古着を愛してやまない宝さんの店には、ゲーム、アニメ、映画など、サブカル系のヴィンテージTシャツが、ずらり。値段は主にTシャツ1枚が1万円以上、中には数十万円のものまであった。
高額な値段以上に驚いたのは、その経営状況だった。ある夜、居酒屋で話を聞くと、宝さんの通帳にある全財産は、なんと9万円だという。
「経営はギリギリ。毎日が勝負」
まさに崖っぷちな状況で店を運営していたのだ。
上京以来、ずっと下北沢に暮らす宝さんの自宅を訪ねると、ご飯は冷凍し、食事は自炊。10年以上も1日1食の生活を続けていた。良い古着を仕入れるためだと言う。
実は今回の古着ブームは世界的なもので、欧米だけでなく、アジアでも古着の価格が高騰。とくに希少性の高いバンドやアニメ系のTシャツは、投資の対象となり一着100万円以上で取引される物も。年々価値が上がり続けるバブル状態となっている。
こうした商品を仕入れて、もし売れなければ大赤字だ。それでも宝さんは節約生活を続けながら、時には、採算度外視で高額なヴィンテージTシャツを仕入れる。
「店の格もあるし、僕らが本気だってことお客さんに分かってもらいたい」
常連からスタッフに「大好きな古着で身を立てたい」
そんな宝さんには“相棒”がいる。沖縄出身の登生(とうい)さん(27)だ。

実は宝さんは、金銭的に苦しいにもかかわらず、更に立地の悪い場所にある潰れた居酒屋の2階に、もう1軒の店「ft.(フィート)」を構えていた。その店長を任されていたのが登生さんだった。
もともと宝さんの店の常連客だった登生さんは、元准看護師。
4年前に双極性障害を患い、病院を退職して以来、1年以上、自宅に引きこもる生活を続けたが、「大好きな古着で身を立てたい」と考えていた。そんな時、誘ってくれたのが、宝さんだった。
2年前に結婚した妻と暮らす登生さんは「将来は自分の店を持ちたい」と語るが、売り上げは伸びず、月の収入は10万円ほどだという。夢にはほど遠い状態だった。
見失った「FENDIのワンピース」
「仕入れこそが古着屋の命」――。
そんな鈴木さんの言葉を知ってか知らずか、ある日、宝さんと登生さんの二人も、一発逆転を狙い仕入れの旅に出た。
向かったのは、東北地方のとある町。到着したのは、12時間後。他の店にはまだ知られていな古着卸業者の倉庫で、1万着、計8トンの服の山から掘り出し物を探すのだ。
アルバイトスタッフも加わり、3人態勢で探し続けること7時間。彼らはついに“宝”を発見した。

それはイタリアの一流ブランドFENDI(フェンディ)の、30年以上前のヴィンテージ・ワンピース。安く見積もっても4万円で売れる代物だった。
「本当に奇跡なことなんです」
思わぬ掘り出し物に興奮する3人。しかし、彼らが大切なことをし忘れていたと気がついたのは、作業開始から10時間後。倉庫の3分の1、およそ3トンの服の確認作業を終えた頃だった。
「いまマジで重大な、ヤバいよね、超ヤバい。こんだけやって1枚しかないんだよ、訳分かってる?」
倉庫に宝さんの低い声が響き渡った。なんと、3人はこの日一番の収穫だったあのフェンディのワンピースを、服の山の中にまた埋もれさせていた。興奮のあまり、本来やっておくべき「仕分け」を忘れてしまっていたのだ。

2人を宿に返した後、宝さんは山を掘り返した。しかし、結局、フェンディのワンピースは見つからなかった。
ゴールドラッシュに突如かげりが
そんな宝さんと登生さんへの追い討ちとなったのが、2024年夏の記録的な猛暑だった。暑さのため、古着を探して街歩きする客が減り、閑散としていたのだ。
永遠に続くかのように見えたゴールドラッシュに突如かげりが見え始め、業界では「古着ブームの終わり」という言葉すらささやかれ始めた。

この頃、登生さんは、自宅の家賃を払えなくなるまで追い詰められ、「こんな食えなくなるまでやるのは、イカれてる」と口にするようになっていた。
古着という“夢”を追い続けるのか、安定した収入が望める職に就く“現実”を選ぶのか――。登生さんの心は揺れ動いていた。
一方、宝さんも登生さんをサポートするどころではないほど追い詰められていた。登生さんに任せていたフィートで8月に売れた商品はわずか1点のみ。頼みの綱のフリーマーケットも、駅前の再開発の影響で路地裏へ移転し、客が激減していた。
ただ、そんな中にあっても、鈴木さんのデザートスノーは順調に客を集めていた。それはなぜか。
実は、鈴木さんが創業したのは、1990年代後半に起きた古着ブームの真っ只中。しかし、その後、ブームが終わり、古着が全く売れなくなる中、事業縮小やスタッフの解雇など、辛酸を舐めた経験があった。そのことから、ブームに左右されない経営を強く意識していたのだ。
「高く商品を売る店は厳しくなるが、今回のブームは若者だけでなく幅広い層が古着を買っている。ブームは下火だが、まだまだ古着ファンはいる」
そう語る鈴木さんの周囲には、15年以上働く古参のスタッフたちがいた。
見果てぬ夢を追い続け…
2024年8月末。宝さんの元に、思い詰めた表情をした登生さんがやってきた。
「もう限界です。自分の夢を追う前にお金が必要ですし、家族にはもう迷惑を掛かられない」
そう話す登生さんを前に、宝さんはうなずくことしかできなかった。そして登生さんは、古着の聖地・下北沢を去っていった。
残された宝さんは、フィートを休業させる。しかし、秋になっても冬になっても下北沢に客足は戻らなかった。それでも宝さんは、年末に迫ったフィートの賃貸契約を延長し、新たにスタッフを雇った。
「どの古着屋も現実と理想の間で不自由。俺はやりたいことをやりきる」
宝さんは、まるで自分に言い聞かすようにそう語った。

しばらくすると、流れが変わったかのように、店には少しずつ客が増え、売り上げも伸び始めた。新たな仲間と進む――。その決断が吉と出たのだ。
ただ、「業績が上向きだ」という宝さんに通帳残高を見せてもらうと、これまた驚いた。
「ヤバッ!こんなにないの、俺。8万2000円です」
全財産は、夏よりも減っていた。それでも宝さんは「いつか」を信じて、見果てぬ夢を追い続けるという。
一方その頃、下北沢を離れ、一度は古着の夢を諦めた登生さんの姿は茨城県にあった。古着卸業者の倉庫で、古着を仕分ける仕事を見つけたのだ。
「肉体労働だけど好きな古着に触れて楽しいです」
そう笑顔で語る登生さんもまた、まだ見果てぬ夢の途中にいるようだった。
(取材・記事/椎名洋平(スローハンド))