オウム真理教による地下鉄サリン事件から10日後の1995年3月30日、国松孝次警察庁長官が銃撃され瀕死の重傷を負った。

教団幹部の井上嘉浩元死刑囚は、オウム信者であり警視庁の現役警察官でもあるXから長官銃撃事件発生の情報を貰ったと証言。
Xは特捜本部の調べに対し涙ながらに警察庁長官を撃ったと証言したが、警視庁幹部は裏付け捜査を禁じた。

秘匿されたXの存在は匿名のハガキにより暴露され、隠蔽したとの厳しい批判の中、警視庁幹部が更迭されるなど警察組織は激震に見舞われた。

2010年に未解決のまま時効となったこの事件は、発生から間もなく30年を迎える。
入手した数千ページにも及ぶ膨大な捜査資料と15年以上に及ぶ関係者への取材を通じ、当時の捜査員が何を考え誰を追っていたのか、「長官銃撃事件とは何だったのか」を連載で描く。

警察庁長官銃撃事件は未解決のまま時効を迎えた
警察庁長官銃撃事件は未解決のまま時効を迎えた
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(前話『組織的隠蔽…警察庁長官銃撃を“自供”したオウム信者の警察官を隠蔽した背景に国松長官の“負い目”か…オウムへの組織的“怨嗟”も』はこちらから)
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動きだした裏付け捜査

Xの存在が白日の下に晒されたことから、X供述の裏付け捜査が大規模に始まった。

まず、犯行に使われた銃の捜索が最優先で行われる。

前述したが、石室警部補(仮名)が最初に聴いた時、X巡査長は「逃走の際に乗り込んだ車の中で平岩(オウム信者・仮名)に渡しました」と答え、その後は「明治神宮外苑で井上に渡した」となり、Xの存在が暴露された頃には「神田川に棄てた。銃を棄てた翌日に空の薬きょうも棄てた」などと供述が変わっていた。

神田川で凶器の捜索が行われた 1997年11月
神田川で凶器の捜索が行われた 1997年11月

X供述の裏付けのため警視庁は1997年11月5日から神田川の水道橋付近の水を抜き、川さらいをして銃の捜索を行う。

来る日も来る日も川に堆積したヘドロとの闘いとなったが、12月21日まで行った約2カ月に及ぶ捜索では、拳銃様の物1丁(真正拳銃)、薬莢様の物4個(空砲、30口径ライフル弾、20口径ライフル弾など)が見つかったものの、いずれも事件とは無関係で、凶器の拳銃は見つからなかったのである。

凶器の拳銃は見つからなかった
凶器の拳銃は見つからなかった

また3月30日の事件当日、犯行後の昼頃から一緒に動いていたと証言した、サリン事件の捜査本部の“相勤者”からも話を聴いた。

確かにこの相勤者はXの供述通りこの日の昼頃、恵比寿交番で待ち合わせをしたと証言した。その際、Xが異様な匂いを発していて「小便臭かった」とも言っている。「待ち合わせの後は2人でバス会社に聞き込みに言った」と相勤者はXと同じ話を証言するのだ。

同僚は“銃の空撃ち”を目撃していたのか

さらに、Xが「寮で銃を空撃ちしているところを目撃された」と供述していた同僚の木下巡査(仮名)にも1996年11月、任意で事情聴取が行われた。

しかし木下は「その様な事実はない」と完全否定する。

当時、本富士署の留置係として勤務していた木下は、X巡査長の後輩ではあったが、柔道の「特練員」で体も大きく、どちらが先輩なのかわからないくらい態度も大きいことで署では有名だった。

事件当時Xが勤務していた警視庁・本富士警察署
事件当時Xが勤務していた警視庁・本富士警察署

「特練員」とは本富士署の代表として警視庁内部の署対抗戦に出場する選手のことだ。対抗戦の前ともなれば勤務を外れて柔道の練習に専念する。
柔剣道の対抗戦での勝利は署にとって大変名誉なことであるため、署長以下全署員を挙げて特練員を優遇する傾向があった。上司から甘やかされた若い特練員には、自分が特別待遇の人間だと勘違いし、先輩のみならず副署長や署長にも横柄な態度を取る者もいた。

凶器と同型の銃 捜査資料より
凶器と同型の銃 捜査資料より

そういう夜郎自大ぶりを発揮する若者を「かわいい奴」として飼いならすことが“上司に求められる豪胆さ”だと思っている幹部もおり、ますます「特練員」の態度が間違った方向に増長する。

柔道で持て囃されているうちに、木下は己を “ヒトカドの者”だと勘違いし、自分の頭の中だけで自らを肥大化させてしまう、今風に言えば“痛いキャラ”の若者だった。

そういうオラオラ「特練員」の木下と、人に何か強く言われるとオロオロするXの力関係はいともたやすく逆転していたのである。

事件当日に寮で何が…

この頃、X巡査長の部屋には加入電話が設置されていて、態度の大きい木下だけがノックもせずにXの部屋に入れたという。

木下は長官銃撃事件の前日が留置係の当直勤務で、事件当日は当直明けとなる。当日は明けで帰ってから交際中の女性警察官と旅行に出かける予定だった。

Xが供述しているように、事件前日に銃を寮の部屋に持ち込んでいたところを目撃されたということであれば、前日の当直勤務中に寮に一度帰ってきたことになる。

寮に一度帰るとなると、留置係は当時2名で当直勤務をしていたので、相勤者に了解をもらう必要があった。前日にそうした動きを木下がしていなかったか相勤者に聴いたところ、そういう記憶はないという。

犯行に使用されたホローポイント弾 捜査資料より
犯行に使用されたホローポイント弾 捜査資料より

石室は事件当日の午前中、当直明けで寮に戻って来た木下が交際相手の女性警察官に電話をするためXの部屋に入ったところ、空撃ちを目撃したという話だと考えた。木下の勤務ローテーションを考えると話の合うタイミングはそこしかなかった。

事件当日Xは午前9時過ぎに本富士署の公安係のところに缶コーヒーの差し入れを持って現れている。

公安係のところで結城巡査部長(仮名)と話したのは10~20分だということなので、署を出て寮に向かったとすれば、寮に着いたのが午前10時前になる。当直勤務明けで木下が寮に帰ってきた時間と照らし合わせると、この話は事件当日の少なくとも午前10時から11時の間にあった話だと推定されるに至った。

長官銃撃事件発生当日は各署に大量の警察官が動員された 1995年3月30日
長官銃撃事件発生当日は各署に大量の警察官が動員された 1995年3月30日

Xがなぜ銃を寮に持ち帰ってきたかは容易に想像できた。

長官事件が発生し、都内全域は厳戒態勢が敷かれている。本富士署の公安係も緊急配備対応で出払っているところからすれば、当時都内はそこら中で検問が行われていたとみられる。

その厳戒態勢の中で銃を安全に移動させることができるのは警察官であるXしかいない。Xが犯行に使われた拳銃を寮に持ち帰って来たこと自体は信憑性のある話だった。

Xと木下の“直接対決”

しかし木下への任意聴取が行われた時には、オウム信者で長官事件に関与していた可能性があるX巡査長のことがマスコミで大きな話題となっていた。

木下にしてみれば、銃身の長い特殊な銃をXが部屋で取り出していたという特異な光景を目の当たりにしていながら、何故1年半も黙っていたのかと叱責されるのは嫌だったであろう。今更それを見たとは言い出しづらい状況だったのかもしれない。

木下は毎日、南千住署に出頭し午前9時から午後4時まで20日間くらい聴取を受け続けた。最後にはX本人を木下の前に呼び、直接話をさせる。