昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

速球と落差の大きいカーブを武器に、巨人のV9をエースとして支え続けた堀内恒夫氏。沢村賞2回、最優秀防御率、最多勝、最高勝率3回、MVP、新人王など数々のタイトルを獲得し通算203勝。13年連続2桁勝利、高卒ルーキーにして開幕13連勝、ノーヒットノーランの試合で3本塁打など、数々の偉業を成し遂げたジャイアンツのレジェンド投手に徳光和夫が切り込んだ。

憧れの長嶋氏とまさかのチームメイトに

徳光:
堀内さん、ご実家は何をしていらっしゃたんですか。

堀内:
うちは製糸屋さん。絹糸。

徳光:
養蚕業ですか。

堀内:
養蚕っていうか、お蚕さんを買ってきて絹糸にして、それを出す。

徳光:
お坊っちゃんだったんだ。

堀内:
ええ。いいとこのボンですよ。

徳光:
そうですよね(笑)。
それで野球を始めたのは。

堀内:
小学校のとき。周りが野球以外はダメなんですよ。始まる前に学校に行って、みんなで軟式テニスのボールで野球をやるんです。野球をやらないと仲間に入れてくれないんですよ。小学校のときはサードをやって、ピッチャーもちょこっとやった。

徳光:
サードをやってたってことは、やっぱり長嶋さんに憧れてた。

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堀内:
そうです。長嶋さんに憧れて野球始めたんです。まさかね、あんなに憧れた人と一緒に野球をやると思わなかったですからね。

徳光:
そうですよね。

デビュー戦以外無敗の中学時代

堀内:
中学に行ったとき、僕はサッカー部に入ったんですよ。

徳光:
えっ、そうなの。

堀内:
はい。9人より11人のほうが出やすいからって。

徳光:
(笑)。結構打算的な少年だったんですね。

堀内:
打算的でしたね。それに、野球部はいじめがあったんですよね、殴ったりね。もうあの頃はひどかったですから。

徳光:
でも、途中から野球部に入ったんですよね。

堀内:
野球がうまかったから、1年生のときの6月か7月に野球部に入れさせられたんです。

徳光:
ポジションはピッチャーだったんですか。

堀内:
いや、ショートです。そうしたら、運がいいのか悪いのか知りませんけど、1期上先輩のエースが試合の1週間前に肩を壊しちゃったんですよ。

徳光:
いろいろありますね。

堀内:
それでピッチャーをやるやつがいなくて、「お前、小学校のときにピッチャーをやったことがあるだろう。ショートからいいボールを投げるんでピッチャーをやりなさい」って言われた。いきなり試合で投げて1対0で負けたんです。

徳光:
デビュー戦は黒星。

堀内:
その負けが中学で唯一の負けです。2年生の秋の新人戦から全部勝ちましたから。

徳光:
やっぱりすごかったんですね。

最強のカーブを生んだ幼少期の大ケガ

堀内:
その肩を壊した先輩が僕にカーブの投げ方を教えてくれたんです。

徳光:
そこからカーブがスタートするんですね。

堀内:
実は僕は右手の人さし指が短いんですよ。先輩が教えてくれたカーブが抜くカーブだったんです。指が短くてボールがちょうどうまく抜けるんですよ。

徳光:
人さし指が短いのは、先天的なもの。

堀内:
いや、違います。これはケガをしたんです。

徳光:
どういうケガを。

堀内:
山梨にほうとうって食べ物があるんですけど、そのほうとうの麺を切る機械を買ったんですよ。うどん粉のかたまりを入れると、向こうから切れて出てくる。そこに指を一緒に入れちゃったんです。

徳光:
うわぁ。それはいくつのときですか。

堀内:
4歳って言ってましたかね。指先が斜めに切れたんですよ。人さし指の先っぽ、中指側が斜めに取れたらしいんです。だけど、爪が残ったんで助かった。爪がなかったら投げられなかったですね。

徳光:
なるほど。

堀内:
指の長さが違うから、投げたらボールが自然に曲がるんですよ。中指をボールの縫い目に引っ掛けると、人さし指は少し離さないと縫い目に引っ掛かんないんです。中指と人差し指をそろえて持てないんです。

徳光:
へぇ。

中指と人差し指の間をあける堀内氏のストレートの握り方
中指と人差し指の間をあける堀内氏のストレートの握り方

堀内:
それで僕は少し間をあけて投げるんです。それに、これだけ長さが違うと指の力も違うんですよ。ですから自然に曲がるんです。今でいうカットボールってやつ。僕はストレートを投げてるつもりなんだけども、指の作用で必ずちっちゃく曲がるんです。だから、僕は意識してひねってたわけじゃない。

徳光:
それがストレート。

堀内:
ストレートのつもりで投げてんだけど、ボールがピュッと曲がるんです。それでなかったら、真っすぐとカーブだけでは、プロ野球では通用しないですから。

徳光:
そうですよね。カーブはどう投げてたんですか。

堀内氏のカーブは親指と中指で握り縦にひねる
堀内氏のカーブは親指と中指で握り縦にひねる

堀内:
普通の選手はカーブは斜めにひねるんですよね。僕は縦にひねる。親指と中指で握って、その間から抜くんですよ。人差し指は短いから立てるとボールに触らないんです。

徳光:
それで縦に落ちるんですか。

堀内:
そうです。それで大きく曲がるんです。だから、カーブだけは打たれる気がしませんでした。

水晶店店長「堀内を巨人に入れる」

徳光:
そのカーブは高校時代、相当通用したでしょうね。

堀内:
ええ、投げれば打たれません。けれど、高校時代は「投げるな」って言われて、ほとんど投げなかったんですよ。

徳光:
そうなんですか。カーブは「あんまり投げるな」と。

堀内:
投げてもしょうがない。どうせ真っすぐだけでも十分抑えられるから。「君は高校野球で終わる選手じゃない」って言われたんです。

徳光:
監督はどなたですか。

堀内:
菅沼(八十八郎)さんっていう水晶屋の社長さんです。学校の先輩で明治で野球やってた人なんですけど、その人が甲府商業の監督をやってたんです。

徳光:
甲府商業にはレールがひかれたように行ったんですかね。

堀内:
いやいや、違います。僕は甲府工業のほうに行きたかったんです。

徳光:
そっちのほうが強かったんですか。

堀内:
実は決まってたんですよ。でも、その菅沼さんがうちの親父を口説いて、一晩で変えちゃったんです。

徳光:
お父さんとその水晶屋さんは、知己があったわけですか。

堀内:
はい。家が近いんですよ。親父に「どう口説かれたんだ」って聞いたらね、「堀内をプロ野球の巨人の選手にする」って言ったんですって。それで親父は、ひっくり返っちゃったんです。

夏の全国大会出場も甲子園で試合せず

大矢明彦氏
大矢明彦氏

ヤクルトのレジェンド捕手・大矢明彦氏は「プロ野球レジェン堂」に出演した際、早稲田実業で過ごした高校時代を振り返って堀内氏と対戦したときの思い出をこう語っていた。「甲府商業のことなんて知らなかった。でも練習試合で堀内の縦に落ちるカーブを見てビックリ。午前中は堀内に完封負け、午後は木樽(銚子商)に完封負け。死ぬほど走らされた」

堀内:
早稲田実業に行ったんですよ。それで「1安打されたかな」くらいですよ。

徳光:
当時、堀内さんの名前はあまり知られてなかったみたいですね。例えば平松(政次)さんなんかも「堀内って誰?」って…。

堀内:
だって彼は甲子園の優勝投手ですから。僕は甲子園に行ってないですから。

徳光:
そうなんですってね。

堀内:
行ってることは行ったんですよ、1回だけ。

徳光:
どういうことですか。

堀内:
それが記念大会で西宮球場と甲子園を使う。僕らは西宮球場のほうへ入っちゃったんですね。

当時、通常は30校が出場していた夏の甲子園だが、堀内氏が1年生だった1963年は第45回記念大会のため1都府県1校(北海道は2校)となり48校が出場。開催期間が長期化するのを避けるため、3回戦までの40試合のうち18試合は西宮球場で行われた。

堀内:
3回勝てば甲子園でできたんですよ。それが3回目に優勝した大阪の明星高校と当たって負けて…。

徳光:
ホリさんが打たれたんですか。

堀内:
センターとピッチャーを行ったり来たり2回しました。11対0です。だから甲子園でやってないんです。

徳光:
甲子園に行ってないんだ。

堀内:
行ってるんだけどやってない。

徳光:
なるほど。それから3年間で甲子園は一度も行ったことがないわけですか。

堀内:
それから行ってないです。

徳光:
僕はスカウトがすごいと思うんだけれども、それでも当時のホリさんをしっかり見てたわけですよね。相当いろんな球団が来たみたいですね。

堀内:
来なかったのは広島と南海。

徳光:
あと10球団は全部来たんですか。

堀内:
全部来ました。1年生のときから阪急が来てました。

徳光:
そうなんですか。

巨人入団の裏側にあった明治大の画策!?

堀内:
実は僕は早稲田に行きたかったんです。甲府商の監督・菅沼さんは明治出身でしたから、明治に行かずに早稲田に行こうなんてしたもんで、菅沼さんは(明治の)島岡(吉郎)監督に怒られちゃったわけですよ。

徳光:
どうして早稲田に行こうと思ったんですか。

堀内:
1年生のときに明治の練習に行ったんですよ。明治に入る3年生がいて、お客さんみたいな形でついていったんです。またよせばいいのに、僕はお客さんだったから、明治の先輩たちから、「いいよ、最初に風呂入れ」って言われて、入っていったら御大がいるんですよ。

徳光:
島岡さんが。

堀内:
はい、島岡さんが。怒られましてね(笑)。

徳光:
そりゃそうですね。

堀内:
怒られてしゅんとしてたらね、夜中の12時です。「集合!」って。「何するんだろう」と思って見てたら、ホームベースから1塁ライン、ライト線の上に選手全員が正座ですよ。

徳光:
夜中にですか。

堀内:
夜中ですよ。その日は昼間の練習試合で明治が負けてたんです。それで、雨が降ってんのに「グラウンドの神様、申し訳ありません」って土下座してるわけです。それを見た瞬間に、「あ、俺ダメだ。ここに来たら殺される」と思いましたよ。

徳光:
へぇ。でも当時、明治にもすごい選手がいたでしょ。高田(繁)さんとか。

堀内:
高田さんが入学するときなんです。僕は2つ違いますから。

徳光:
あぁ、そっか。

堀内:
僕たちが行ったとき、ちょうど高田さんも入ってきて玄関であいさつしてたんです。「このほど浪商高校から明治大学にお世話になります高田繁です!」ってやってるわけですよ。
次の日にその入学する人たちが練習するんですね。そこで「新人に投げろ」って言われたんですよ。ケージからボールが1個も前に出なかったですよ。かすらない。

徳光:
なるほど。

堀内:
それで、高田さんは、「うわ、こんなにいいピッチャーが一緒に入るのか」って思ったらしいんです。でも、2日後にはもういなかった。甲府へ帰っちゃいましたから(笑)。高田さんは今でも言いますよ。「お前だったのか、あのときにいたのは」って。

徳光:
へぇ。でも明治に入ってたら、人生も違ってましたね。

堀内:
1期上に星野(仙一)さんもいましたしね。

徳光:
そうか、星野さんもいたんだ。

堀内:
恐ろしい。あれは入ってたら恐ろしい世界だったですね。

徳光:
そうですね。でも島岡さんは欲しくて仕方なかったんじゃないですか。

堀内:
だから、早稲田に行ったら困るでしょう。沢田(幸夫)さんっていう巨人のスカウトがいたんですけど、この人は明治のマネージャーだった人なんですよ。菅沼さんと沢田さんの2人で、「おい、堀内が早稲田に行ったら明治は4年間勝てんぞ」って話になって。だから、「巨人で取れ」って。めちゃくちゃですよね。それで巨人に変わっちゃったんですよ。

徳光:
そうなんですね。

堀内:
そう。本当は巨人は木樽(正明)を取りたかったんですよ。

徳光:
そういう話は聞いたことがありますね。

堀内:
木樽を取りたかったんですけど、「木樽は肘が痛い、肘を壊している」っていう噂が出たんですよ。あれ、絶対誰かが流したんですね。ちょうどそのころ、巨人は広岡(達朗)さんが晩年だったんです。それで、広岡さんの代わりに僕を取ったんですよ。

徳光:
えっ、どういうことですか。

堀内:
僕は内野手上がりだからショートができる。ピッチャーもいいんだけど、内野手ができるからっていうことで、巨人は木樽から僕に変わったんですね。

徳光:
つまり“島岡・沢田・菅沼”明治のラインで、巨人軍に決定したわけですか。

堀内:
そうです。

【中編に続く】

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/11/12より)

「プロ野球レジェン堂」
BSフジ 毎週火曜日午後10時から放送
https://www.bsfuji.tv/legendo/