昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!
1970年代にヤクルトの正捕手として活躍した大矢明彦氏。盗塁阻止率5割超えを4度も記録した強肩でダイヤモンドグラブ賞を6回受賞。1978年のスワローズ初優勝&日本一を支えた名捕手に德光和夫が切り込んだ。
【中編からの続き】
盗塁阻止率5割超えの強肩スローイング

強肩捕手としてならした大矢氏は盗塁阻止率5割超えを4度も記録している。
1970年が.568、1972年が.550、1974年が.552、1976年が.500。
徳光:
大矢さんは大変強肩のキャッチャーで、盗塁阻止率が5割を超えるっていうのは、ほんとに誇れる成績だと思うんですよ。人並み外れた強肩だった。あるいは、捕ってから投げるスローイングが速かったんですかね。
大矢:
スローイングも速かったのかもしれないですけど、肩は良かったと思います。
僕、ボールを捕ってから投げるのに、人さし指か中指のどこかが縫い目にかかってたら、握り替えないで投げてたんですよね。そのままパーンとボールをつぶす感じで。
基本的なことなんですけど、大事なのは、ボールを捕りに行かないことなんですよ。ボールを捕りに行っちゃうと、つかむっていう動作を左手でしますよね。そしたら、ボールを投げにいくときに、1回離さないとボールって右手で握れないんですよ。
体に近いところでボールを捕って瞬時に離すようにすると、それだけロスがなくなるんです。前の方でつかむのと胸元で捕るのとで雲泥の差が出てくるんですよね。それは意識してました。できるだけ近くで捕るように。で、握りすぎない。

徳光:
つまり、次の投げる姿勢になりやすいように。
大矢:
そうです、そうです。
あともう一つは、ランナーも癖のある人はいるんです。
徳光:
走るぞっていうのが分かるってことですか。
大矢:
そうですね。リードの幅がちょっと広くなったりとか、腕の振りが振りすぎてると、「ああ、これはサインが出てるな」とか。
徳光:
へぇ、そういうところを見てらっしゃるんだね。
巨人V9捕手・森昌彦氏「吉田孝司には打たせるな」

徳光:
ジャイアンツV9時代のキャッチャーといえば森(昌彦)さんなんですけど、森さんはどういうふうに写りましたかね。
大矢:
ジャイアンツのV9を支えてる方でしたからね。「すごいキャッチャーだな」って思っていました。でも、僕がユニフォームを着たときって、ジャイアンツの中で吉田(孝司)さんが少しずつ…。
徳光:
頭角を現してきましたね。

大矢:
そうなんですよ。神宮球場の巨人戦で初めて森さんに会ったとき、「お前が大矢か」って言ってくれて、「はい、よろしくお願いします」。なんか教えてくれるのかなと思ったら、最初に、「おい、うちの吉田を打たせんなよ」って言われたんですよ。
徳光:そうですか(笑)。
大矢:
びっくりしました。プロってこういうもんかなって。
それで、「あいつはな、2ストライクまでは真っすぐを狙ってる」。
徳光:
えっ、そんなことまで言うんですか。
森さんがそれだけ大矢さんに話すってことは、大矢さんに対しても、相当注目してたってことですよね。
そういう意味では、「大矢さんはジャイアンツじゃなくて良かったな」って思いますね。
大矢:
はい。それは「はい」って言えますね(笑)。
酒禁止・米もダメ 広岡監督の私生活管理

1976年のシーズン途中からヤクルトの指揮を執ったのは広岡達朗氏。選手の生活に厳しい規制をかける「管理野球」を実践し、1978年にヤクルトを球団創設29年目にして初めてのリーグ優勝、日本一に導いた。
徳光:
広岡さんはどういう監督でしたか。
大矢:
厳しい監督さんだったと思います。
徳光:
それは野球理論がってことですか。
大矢:
そうですね。
徳光:
三原さんとは違う厳しさ。
大矢:
もう三原さんとは考え方が180度違いました。
私生活の話で申し訳ないんですけど、三原さんのときって、まだ泊まるところは旅館が多かったんで、「おい、来い」って呼ばれて円卓で一緒に飯を食って、「まずはビール飲め」。ビールを飲んで食欲を増進させ、飯をたくさん食って、体を丈夫に大きくしろっていう教わり方だったんですよ。

大矢:
それが広岡さんになったら、全く逆になって、酒飲むな、米食うな…。食べるんなら玄米みたいな。
「若松と2人で泣いた」初優勝の瞬間
徳光:
でも、1977年に2位になって、チームとしては行けるんじゃないかっていう空気が出てきましたよね。
大矢:
はい。77年はチームがちょうど上がっていったところだったんですね。相手がどうというよりも、ヤクルトというチームがまとまっていきかけてる過程でしたね。
徳光:
ただ、優勝した1978年は、開幕戦でマスクをかぶってらっしゃらなかったんですよね。

大矢:
かぶってらっしゃらなかったんじゃなくて、かぶらせてもらえなかったんです。
徳光:
開幕キャッチャーは八重樫(幸雄)さんでした。

大矢:
そうです。それが、すごく自分の中では恥ずかしかったの。前年までダイヤモンドグラブ賞をもらってたにもかかわらず、開幕ゲームに出られなかった。
「八重樫も使わなきゃ」っていうのがあったんだとは思うんですけどね。
それで、何試合かずっと出してもらえなかったです。
徳光:
「広岡さんはそういう使い方をするのかな」と思うんですよね。松岡さんも、6月に1カ月間投げさせてもらえなかった。ある意味で相通ずるものがあるんですかね。
大矢:
そう思っていいと思いますね。
徳光:
でも、大矢さんはもちろんのこと、ピッチャーで松岡さん、安田さん、それから、若松(勉)さんが同い年。大杉(勝男)さんもいて、戦力は上がってきてましたよね。
大矢:
はい。だんだん整ってはきてたと思います。
徳光:
そして迎えた10月4日、神宮球場、相手は中日ですね。谷沢(健一)さんのセカンドゴロ、ダブルプレーで優勝決定。
あの胴上げは忘れられないですか。

大矢:
やっぱりうれしかったですね、やった経験がありませんでしたから。ベンチに入って、若松と2人でわんわん泣いてました。
徳光:
やっぱり優勝って、そういうものなんでしょうね。
それで、今度は日本シリーズで、いよいよ阪急と当たるわけですが、強かったでしょ、3連覇中でしたから。
大矢:
強かったですね。
「松岡が心配だった」第7戦1時間19分の中断
3連覇中の阪急にヤクルトが挑んだ1978年の日本シリーズは、ヤクルトが4勝3敗で阪急をくだし日本一に輝いた。最終・第7戦では、6回裏にヤクルト・大杉勝男氏が左翼ポール際に放ったホームランの判定を巡って、阪急の上田利治監督が猛抗議。1時間19分にわたって試合が中断される事態となった。
大矢:
あのシリーズは、神宮が使えなくて後楽園でしたので、「後楽園にもう1回帰ってこような」っていうのが…。
徳光:
そうか。第5戦まではとにかくやろうと。
大矢:
はい。
徳光:
つまり、負けるかもしれないけど1勝はしようと、そういう決意で臨んだわけですか。

大矢:
そう。一番苦労したのは足立(光宏)さんでした。ちょうどいい高さにシンカーが来るんで、ほんとに右バッターは苦労してましたね。
徳光:
第7戦はその足立さんが先発だったじゃないですか。ヤクルトの先発、松岡さんの調子はどうだったんですか。
大矢:
調子は良かったです。でも、途中でお休みになっちゃってね、あれが、心配だったですね。
徳光:
あの79分の中断が心配でしたか。でも、松岡さんは、まさに“天使の79分”だっておっしゃってましたよ。

松岡氏は「プロ野球レジェン堂」に出演した際、この中断を振り返り、「猛アピールのお陰で、ものすごく助かった。疲れて疲れて、ボールなんて自分で追っかける余裕ないんだもん。抗議がサッと終わってたら、多分、次のイニングに追っかけられてる」と語っていたが…。
徳光:
大矢さんとしては逆に心配だったわけですか。
大矢:
体が冷えちゃうんじゃないかなと思ってね。でも、その後もマツは普通に投げていけたんで良かったですね。
オールスターで体感したセ・リーグの好投手
徳光:
オールスターではセ・リーグの好投手とバッテリーを組んだと思うんですけど、球を受けてみてどうでしたか。

大矢:
そうですね、左ピッチャーだと、やっぱり江夏(豊)が一番速かったですかね。右バッターのアウトローの真っすぐ、ボールと思ったのもビュンと上がってくるストライクなんですよね。アウトローの真っすぐの威力ですごいと思ったのは江夏。
あと、江川(卓)も速かったです。江川の球って高めが速くなるんですよね、ブーンと上がってくる感じ。打ちにいっても打てないボールでしたよね。ずんずんずんずんって向かってくる真っすぐだったですね。
徳光:
平松(政次)さんのシュートはどうでした。

大矢:
平松のシュートはえげつないっていうか、体を巻くような感じで曲がってきましたね。シュートを打ちにいっても打てない。ボールを捕りに行っても思ったところよりも中に食い込んでくるっていうのが、平松のシュートでしたね。
掛布雅之氏「球種を言わないで」
徳光:
打者ではどうですかね、「ON」以外で印象的な打者といえば。

大矢:
「ON」以外では山本浩二さんかな。よく打たれましたね。攻めようがないっていうか、どう攻めたらいいんだろうなって。よく「ぶつけろ」って言われたバッターも浩二さんだったな。
徳光:
バースさんとか掛布さんとか、タイガースのバッターはどうでしたかね。
大矢:
バースはピッチャーの癖とか配球とか読むのがすごく上手なんですよ。確かにミートするのも上手だったんですけど、読みがすごくいいバッターでした。だから、逆に言うと駆け引きするのが面白いバッターでしたね。
徳光:
なるほど。

大矢:
掛布は球種が分かると打ちにくいバッターなんですよ。「球種が分かったらボール球でも振っちゃう」って言うんですよね。「そうなの」って思うんですけど。
だから、よく、「おい、カケ、カーブいくぞ」って言ったりして…。そしたら、「大矢さん、言わないでくださいよ」。
徳光:
そうなんですか(笑)。
もっとやりたかったがチームを尊重して引退決意

ヤクルトの正捕手として一時代を築いた大矢氏だったが、1981年から出場試合数がだんだん減っていく。1985年には17試合出場にとどまり、この年限りで16年間の現役生活に別れを告げた。
徳光:
引退されるときは、やりきったっていう感じでしたかね。
大矢:
正直言って、もうちょっとやりたかったですね。
ただ、やっぱり、ヤクルトっていうチームで選手としてやってきた以上、ある程度、チームを尊重しなきゃいけないっていう気持ちもありました。トレードの話もあったんだけど、結局はヤクルトでずっと面倒見ていただいたわけですし。
最後の年も「引退するって言わないでくれ」って言われてたんですよ。だから、僕、終わるまでは何にも言えないで…。引退試合もやってないんですよね。
徳光:
大矢さんほどの人がやってないんだ。
大矢:
はい。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/9/3より)
「プロ野球レジェン堂」
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