昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!

1970年代にヤクルトの正捕手として活躍した大矢明彦氏。盗塁阻止率5割超えを4度も記録した強肩でダイヤモンドグラブ賞を6回受賞。1978年のスワローズ初優勝&日本一を支えた名捕手に德光和夫が切り込んだ。

“長嶋ボール”は本当にあった!?

徳光:
大矢さんがプロになったころは巨人V9時代の後期でしたが、当時の巨人打線はいかがでしたか。

大矢:
V9時代の巨人って、僕がテレビで見てた野球なんですよね。
自分がキャッチャーをやってるバッターボックスに、長嶋さんだったり王さんだったりがいるんですよ。僕は王さんに憧れて野球やってましたから。

徳光:
王さんは早稲田実業の先輩でもありますしね。

大矢:
でも、王さんはバッターボックスに入っても、あんまりしゃべりはしなかったですね。「おい、元気でやってるか」。「よろしくお願いします」くらいでした。
長嶋さんにはよくお話ししていただきましたね。

徳光:
バッターボックスでですか。どういう話を。

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大矢:
話せるギリギリの話かもしれません(笑)。
タイガースに、大柄の選手が多かった時代だったんですよね。それで、「大矢、タイガースみたいになるんじゃねえぞ。野球っていうのは、自分の身をもっとスリムに整えてやらんと、根気が続かなくなるぞ」とか、そういう話をしてくれるんですよ。

徳光:
へぇ、そんな話をするんですか。

大矢:
はい。あと、印象に残っているのは、“長嶋ボール”、“王ボール”があるって言うじゃないですか。

いわゆる“長嶋ボール”、“王ボール”とは、選球眼が良い長嶋氏、王氏がきわどいコースを見逃した場合、審判も「長嶋、王が見逃したのだから」と、ボールと判定してしまうというものだが…。

大矢:
長嶋さんはアンパイアを褒めるのがすごく上手なんですよね。

徳光:
えっ、どういうことですか。

大矢:
例えばね、1球目にギリギリの真っすぐでポーンとストライクを取るじゃないですか。審判が「ストライク!」って言ってくれますよね。そしたら、長嶋さんが(審判に)「よく見たな、やっぱりストライクか」って言うんですよ。
2ストライクになってから、「1球目が良かったから、あれで行こう」って投げさせて、パチーンと来て、「決まった!」って思ったの。それなのに審判が「ボール!」って言うんですよね。「えっ、1球目と変わらないじゃないの」ってなるでしょ。

大矢:
そしたら、審判が「大矢、長嶋が見逃してるんだぞ。1球目のいいボールで『ストライクってよく見た』って言ってくれた長嶋が見逃したら、それはボールだろ」って言うんです。
そのくらい長嶋さんってアンパイアを褒めるのが上手だったんですね。

徳光:
それが“長嶋ボール”(笑)。

大矢:
はい。

王氏の師匠・荒川博氏「膝を狙って投げろ」

徳光:
王さんで印象に残っていることはありますかね。

大矢:
荒川博さんがヤクルトの監督をされた時代がありましたけど、王さんは荒川さんのお弟子さんだったじゃないですか。それが敵の選手になった。その荒川さんには、よく「王は膝を狙って投げさせろ」って言われたんです。

徳光:
「膝を狙え」っていうのはどこのことですか。

大矢:
そう思いますよね。大方の人が(一本足打法で)上げる右足の膝を狙うんですよ。

徳光:
そうですよね。違うんですか。

大矢:
軸足の膝なんですよ。

徳光:
えっ。

大矢:
軸足の膝を狙って投げさせる。上げた右膝だとばっかり思ってたんですけど、「バカ、お前な、王が上げてる膝を下ろしたら、ちょうど真ん中だろ。よく考えてみろ」って怒られて。
それで、左の膝を狙うようになって。

徳光:
それは功を奏したんですか。

大矢:
いやあ、そこまで投げきれるコントロールがある人って、なかなかいないですよね。

徳光:
でも、安田(猛)さんとか梶間(健一)さんとかは、結構抑えてましたよね。

大矢:
内角からの曲がり球が放れるピッチャーだったんです。

抜群のコントロールで“王キラー”の異名をとった安田猛氏。王氏の通算対戦成績は打率2割5分4厘、10本塁打、16三振だった。

大矢:
安田の場合は何がいいかっていうと、間が短いんですよね。
王さんは一本足でしっかり構えて打たなきゃいけないんですけど、安田はボールを受け取ったら、すぐに投げるような感じでモーションも小さいんですよ。だから、王さんが足を上げるタイミングと安田が投げるタイミングって若干ずれが出てくるんですよ。
でも、安田が投げて、「あっ、デッドボールになる」って思ったインサイドに入ってくるシュート気味のボールをホームランにされたこともあります。「やっぱりホームランバッターはすごいな」って思わせられましたね。

父は歯医者にさせたかった

徳光:
少年時代のお話を伺いたいんですが、お生まれは東京・大田区の蒲田ですよね。

大矢:
そうです。父親は野球がすごく好きだったもんですから、原っぱをならして野球ができるようにして、近所の子供たちを集めて野球をやってたんですよ。僕が小学校低学年ぐらいのころです。

徳光:
お父さんはどういうお仕事だったんですか。

大矢:
歯科技工士っていう、入れ歯を作ったりする技工をしてました。
父親は自分が技工士だったんで、できれば僕を歯医者にしたかったんですよね。日大三中に行けば日大三高から日大の歯学部…。

徳光:
日大歯学部は有名ですからね。

大矢:
はい。なので、「日大三中に行け、三中に行け」って言ってましたね。

徳光:
にもかかわらず、親の勧めを振り切って…。

大矢:
振り切るだけの事件があったんですよ。

王貞治投手に憧れ「早実で甲子園に出たい」

大矢氏が選んだ中学は早稲田実業中等部。

大矢:
王先輩が“WASEDA”って書いたユニフォームを着て甲子園で投げてるのを見たんですよね。
あれを見ちゃったら、やっぱり、「早実に行きたい。早実に行って甲子園に行きたい」って思いますよね。それで、早実を選んだんです。父親に「早実を受けたい」って言って。

徳光:
じゃあ、王さんのあの甲子園での2試合連続ホームランなんかを見て。

大矢:
僕は高校時代の王さんのバッティングって、あんまり覚えがないんですよ。

徳光:
ピッチャーのほうの王さんに憧れたんだ。

大矢:
はい。左で投げてる王さんを見て、「マウンドさばきがすごいな。ああなりたいな」と思ってましたね。

徳光:
王さんはピッチングも、かっこよかったですもんねぇ。
でも、早実に行けたということは、勉強もできたんでしょ。

大矢:
いや、大したことなかったんじゃないですかね。でもまあ、運良く受かりました。

先輩のひと言で「キャッチャー大矢誕生」

徳光:
中学で早実にお入りになって、それで野球部に入るわけですよね。

大矢:
野球部の試験を受けたのが250人くらいいましたね。

徳光:
試験があるんですか。

大矢:
はい。投げたり走ったりね。
そのとき、電車で一緒になった先輩に、「どのポジションで受けるんだ」って聞かれて、「ピッチャーで受けようと思ってます」と答えたら、「甘い。お前みたいな小さいの受かんねぇよ。キャッチャーで受けろ」って言われたんですよね。
ピッチャーは80人くらいいましたからね。その次に多かったのが長嶋さんのサードと王さんのファースト。キャッチャーが20人くらいで一番少なかったんですよ。それでキャッチャーで受けたんです。

徳光:
キャッチャーで受けて正解だったんですか。

大矢:
じゃなかったら、受かんなかったかもしれないですよね。

徳光:
じゃあ、その先輩のひと言が大矢さんの人生の出発点を決めたんですね。

大矢:
ものすごく感謝してますよ。

野球部員が多すぎてユニフォームに「205番」

1963年、大矢氏は早稲田実業高等部に進学。子供のころからの憧れのユニフォームを着て甲子園出場を目指したが、2年夏は東京大会決勝で敗退、3年夏は準々決勝で敗退と、その夢は叶わなかった。

同級生には、荒川博氏に才能を買われて養子になり、のちに早稲田大学を経てヤクルトに入った荒川堯氏がいた。

徳光:
高校からも、また新たに野球部員が入ってくるんでしょ。

大矢:
そうです。野球部の人数は多かったですね。僕らのころで1学年250人くらいいましたんで。

徳光:
えっ、1学年250人が野球部。

大矢:
ええ、そうですね。名前を覚えてもらえませんから、ユニフォームの胸と後ろに番号を書くんですよ。僕は「205番」だったんです。それで、「おい、205番」って呼ばれてましたからね。

徳光:
塀の中じゃないんですからね(笑)。
大矢さんは何年でレギュラーになったんですか。

大矢:
僕は高校2年生の春から。

徳光:
キャッチャーでですか。

大矢:
そうです。2年生の夏の東京大会決勝まで行ったんですけど、そのときはキャッチャーでした。決勝で修徳に負けて甲子園に行けなかったんですよね。
ご存じだと思うんですが、成田(文男)さんっていうピッチャーがいて…。

徳光:
ロッテに行った成田さん。

大矢:
はい、そうです。成田さんに負けました。
それで、夏の大会が終わると、僕ら2年生が最上級生になって秋の新人戦。最初はキャッチャーだったんですが、準々決勝の前の日に、エースだったやつが肩が痛くて投げられなくなった。監督が「お前と(荒川)堯とでジャンケンしろ。お前らどっちか、明日投げろ」って言って、僕がチョキで、荒川がパー。

徳光:
(笑)。

大矢:
それで僕が投げちゃったんですよ。だから、そこからピッチャーでやってました。

徳光:
じゃあ、その後はずっとピッチャーをやってたわけですか。

大矢:
そうですね。ダブルヘッダーのときは、1試合目にキャッチャーやって2試合目ピッチャーとか、1試合目にピッチャーやって2試合目キャッチャーとか。
早実は東京では野球が強くて結構いい学校じゃないですか。土日の練習試合って2試合、午前と午後にやるんですよ。
当時、銚子商業には木樽(正明)がいて強かったんですけど、ある日、その銚子と午後にやって午前中は甲府商業だったんです。

徳光:
えっ、堀内(恒夫)さんですか。

大矢:
そう。甲府商業なんて知らなかったんですよね。でも堀内の縦に落ちるカーブ見てビックリですよね。

徳光:
高校生のころからあのボールを投げてたんですか。

大矢:
そうなんですよ。それで、午前中は堀内に完封負け、午後は木樽に完封負け。死ぬほど走らされましたよ。

徳光:
当時の早実としては、こんな屈辱はないと(笑)。

大矢:
「1日、1点も取れないって、お前ら、早実始まって以来だ」って怒られてね。

(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/9/3より)

【中編に続く】

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