「今、韓国では医療がひっ迫しています」。2024年9月、2歳と生後2カ月の子ども2人を連れて受診した韓国のクリニックで、医師はそう話した。

私が韓国・ソウルに赴任したのは2024年8月。それから約1カ月遅れで妻と子どもたちが合流した。初めての海外生活で何より心配だったのが、幼い子ども2人が病気になったときの対応だ。この日、私は妻と一緒に生後2カ月の子どもの予防接種の相談もかねて、日本語での対応が可能なソウル市内のクリニックを受診したが、「医療がひっ迫している」という医師の言葉に、私と妻は目を合わせて驚いた。

医療水準が高いとされている韓国で、一体何が起きているのか。医師を増やすための尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権の医療改革が、深刻な医師不足を引き起こしていた。

相次ぐ“患者のたらい回し”…医師「救急体制は崩壊した」

ソウル郊外にある議政府(ウィジョンブ)聖母病院。365日24時間、ひん死の重傷患者に対応する外傷センターを備え、受け入れる重傷患者の数が韓国内でトップクラスと、救急医療の要となっている病院だ。                                                                                 

救急患者の対応にあたるチョ医師
救急患者の対応にあたるチョ医師
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日曜日の午後7時過ぎ、病院は慌ただしくなる。救急外来の待合室は幼い子どもを連れた母親などで埋め尽くされ、救急車も続々とやってくる。

そのうちの1台から中年の男性が運ばれてきた。バイクを運転中に単独事故を起こしたという。頭を強く打つなどして意識不明の重体だが、受け入れ先の病院が見つからず、30分以上かけてこの病院に搬送されてきた。患者の対応にあたったチョ・ハンジュ医師は「救急体制は崩壊した」と話す。

実は韓国では、救急患者が“たらい回し”にされるケースが相次いでいた。韓国の放送局MBCによると、2024年9月の連休中に、釜山市で30代の女性が、けいれんと意識障害を起こし救急搬送された。救急隊が92回にわたり病院に電話をかけたが受け入れ先は見つからず、結果的に女性は亡くなったという。このケースだけでなく、韓国メディアは救急患者のたらい回しについて連日報じていた。

その背景にあるのが、深刻な医師不足だ。重傷患者に対応する議政府聖母病院の外傷センターでも、取材に訪れた日に当直対応をしていた医師は、外傷センター長であるチョ医師だけだった。チョ医師は「うちの病院では、100人いた研修医が3人になった」と話す。きっかけは韓国政府による医療改革だった。

“消えた研修医”1万人近くが集団辞職

2024年2月、韓国政府は医師不足解消を理由に、2025年度から医学部の定員を、これまでの3058人から5058人に増やすと発表した。経済協力開発機構(OECD)によると、韓国における医師の数は2022年で人口1千人あたり2.6人(日本は2.7人)、OECD加盟国の平均3.7人を大きく下回り、加盟国の中でメキシコと並んで最下位となっている。

さらに、医師が都市部に集中したり、救急科や小児科の志望者が少なかったりという偏在が問題となっていた。尹大統領は「国民の生命と安全を守ることは国家安全保障、治安と並ぶ国の存立の理由であり、政府に与えられた最も基本的な責務」と医学部の定員を増やす医療改革の必要性を訴えた。

       韓国大統領府前で行われた医師らによる抗議集会(2024年2月)
       韓国大統領府前で行われた医師らによる抗議集会(2024年2月)

しかし、肝心の医療現場は、競争激化による収入減や医療の質が下がるとして、政府の医療改革に猛反発、各地でデモが相次いだほか、日本の研修医にあたる専攻医が全国で約1万人が集団辞職した。

韓国では、研修医にあたる専攻医が医療を支えている実態がある。韓国メディアによると、ソウル大学病院など“ビッグ5”と呼ばれる大規模病院では、全体の医師のうち、専攻医は約39%を占めるという。日本やアメリカの大規模病院は10%前後となっていて、韓国の医療界における専攻医の存在の大きさは明らかだ。

学生の集団ボイコットに“医師の海外流出”も

政府の医療改革に反発しているのは現場の医師だけではない。韓国の最高学府・ソウル大学など全国の大学で医学部に通う学生約1万9000人のうち、なんと97%が今も授業をボイコットしている。韓国では例年、3000人程度が医師国家試験を受けるが、2025年1月の試験の受験者は、300人余りにとどまっている。医療空白を避けるために、韓国政府は医学部の教育課程を現在の6年から5年に短縮することも検討している。

さらに、医師が海外流出する懸念も高まっている。韓国のインターネット上のある掲示板にはハングルで「日本に挑戦する医師たちの会」と書かれ、日本で医師になるための手続きなどが紹介されている。この掲示板を通じて、日本のある医療法人が10月に韓国人の医師向けに採用説明会を開催したところ、50人の定員がすぐに埋まるなど想像以上の反響があったという。

さらに、韓国メディアによると、アメリカやカナダへの進出を考える医師が増えているほか、ベトナムの病院が韓国人医師向けに、月給3000万ウォン(日本円で約330万円)の求人広告を出したという。医療水準の高い韓国の医師たちの需要は高く、医師の海外流出が今後加速する懸念が高まっている。

好きなドラマは「コード・ブルー」現役医師が求めるのは“数”ではなく“質”

議政府聖母病院のチョ・ハンジュ医師の部屋を訪れると、デスクの前には、簡易ベッドがあった。少しでも睡眠が取れるように置いているのだという。

インタビューに応じる議政府聖母病院のチョ医師
インタビューに応じる議政府聖母病院のチョ医師

「日本のドラマ、コード・ブルーが好きだ」。取材の冒頭でそう話したチョ医師。政府が推し進める医療改革については「医学部の定員をある程度、増員することは必要」としながら、現在の定員の60%にあたる2000人増やすことには、「医師の数が足りないのと、救急など必要な科の医師が不足しているのは別の問題」と疑問を呈す。その上で、「単純に医師の数を増やすのではなく、優秀な医師を輩出できるシステムづくりに取り組まなければいけない」と話した。

2024年で50歳になるというチョ医師。医学書がたくさん並べられた本棚には、妻と2人の娘の写真が飾られていた。長引く医療混乱の中、家族と過ごせる時間は少なくなってしまったという。韓国の外傷学会の理事長も務め、この10年、1人でも多くの命を救うため、ドクターヘリなどを活用した救急搬送システムの構築に尽力してきた。

しかし、「10年間やってきたことがそのまま崩れた」とチョ医師は残念そうに語る。救えない患者が増えていることについて、「とてもたくさんのプレッシャーを感じる」と話すが、それでも医師としての使命を果たすために、身を削りながら今も現場の最前線で命と向き合っている。

医療空白解決へ…尹大統領「スピード感持って推進する」

長引く医療空白をどうするのか。

韓国政府は、2026年度以降の医学部の定員については、医学界の意見も取り入れながら再検討していくとしている。11月7日に会見を開いた尹大統領は、記者から医療空白への対応について問われると、「医師が不足している分野の医療報酬を見なすなど、スピード感を持って推進する」と強調した。

記者会見を開いた尹大統領(11月7日)
記者会見を開いた尹大統領(11月7日)

5年の任期を折り返した尹大統領。最新の世論調査(11月18日発表)では支持率が23.7%にとどまる。医療先進国が直面した“医師不足”の影響がより深刻化する恐れもある中、尹大統領のかじ取りが注目される。
(FNNソウル支局 濱田洋平)

濱田洋平
濱田洋平

「FNNソウル支局特派員。1988年熊本県生まれ。テレビ西日本で福岡県警キャップ・行政キャップなどを担当、報道番組「福岡NEWSファイルCUBE」のディレクターとして新型コロナにおける医療問題や旧統一教会などを取材。2024年8月から現職。」