韓国の医療現場が大混乱に陥っている。現場の医師が所属病院を辞職する動きが全国に拡散し、病院での診療が事実上不可能に近い状況となっているためだ。

医師らは、韓国政府が医師不足解消策として医学部の定員を年間2000人に増員すると決めたことに抗議するため、ストライキではなく集団辞職という異例の対応を取った。

「専攻医」の反乱

韓国の保健福祉省によれば、抗議活動開始から3日で韓国の主要病院の専攻医のうち8897人が辞表を提出。勤務地を離脱した専攻医は7863人に達した(2月23日時点)。専攻医の8割近くが辞表を提出したことになる。

抗議の主体を担っている「専攻医」は、日本の「研修医」(レジデント)にあたる。

韓国では医師免許取得後、開業医になるか専門医の資格を取るために上級総合病院などで勤務する。これが「専攻医」だ。最初の1年間は専門を定めずに様々な診療科でインターンとして働き、その後、専門の診療科を決めてレジデントとして3~4年間修練する。レジデントの過程を終え専門科の試験に合格して、ようやく「専門医」の資格を得る。医大6年、インターン1年、レジデント4年として11年以上かかる計算だ。

ソウル首都圏の大型病院「ビッグ5」
ソウル首都圏の大型病院「ビッグ5」
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韓国の病院における専攻医の比重は大きい。ソウル首都圏の大型病院「ビッグ5」で働く医師のうち専攻医は約4割を占めるという。従って、「専攻医」が所属病院を離れれば、通常の診察はもちろん手術、緊急患者の受け入れまで多大な支障が生じる。大手病院では専攻医の抜けた穴を専門医でカバーする体制を取っているが、医療行為は最低限に縮小せざるを得ない状態だ。

しわ寄せは当然患者に集中する。全国各地で診療拒否や手術の無期延期などが相次ぎ、被害の訴えが続出している。

医師不足めぐり激突

果たして韓国では本当に医師が不足しているのだろうか。

韓国政府は韓国の人口1000人当たりの活動医師数は2.51人で、経済協力開発機構(OECD)の平均3.62人に比べて低いと指摘し、増員がなければ今後1万人の医師が不足すると主張している。

一方、医師団体は医師の増加率がOECD国家の平均に比べて高いとして、増員は不要だと反論。さらに、現在は定員3058人の医大生を2000人増やして年5058人とした場合、学生の水準が低くなり結果的に医師の質も落ちるため、定員350人増が適切だと強調する。

ソウル市医師会が開いた抗議集会には医師ら約300人が参加(2月22日)
ソウル市医師会が開いた抗議集会には医師ら約300人が参加(2月22日)

今のところはどちらも強硬姿勢で、歩み寄りの余地は見られない。医療空白が長期化する恐れが高まっている。

ただ、韓国世論は医学部の増員に肯定的だ。2月中旬の世論調査では「肯定的な面の方が多い」が76%、「否定的な面の方が多い」は16%にとどまった。

増員支持の背景には、地方の医療人材不足や、小児科など特定診療科の専門医が不足していることに国民が危機感を持っていることがある。医師の集団辞職についても、世論の反応は冷ややかで政府の強気を下支えしている。

なりたい職業「医師」が示す「階級社会」

韓国では、将来、医師になりたいと考える子供は多い。教育省が毎年実施している将来の希望調査も医師の人気を裏づけている。2023年度は小・中学生で2位、高校生で5位にランクインした。学習塾には「小学生医学部クラス」が当たり前のように存在しており、子供の時から、医師になれば「高収入」と「社会的な地位」が保障されると考えられていることがわかる。

「大学受験」をテーマにした韓国ドラマでは、成績トップクラスの子供たちが医学部をめざして熾烈な競争を繰り広げる姿が描かれる。そこでは志望動機以前に、成績が良ければ「医学部」を受験することが前提となっている。難易度トップの医学部に合格すれば、受験の「勝ち組」であり、将来の成功が約束されるという図式だ。

“人生を左右する”ともいわれる韓国の大学修学能力試験(2023年11月)
“人生を左右する”ともいわれる韓国の大学修学能力試験(2023年11月)

韓国社会を象徴する「スプーン階級論」は、親の職業や経済力によって人生が決まるという考え方だ。本人の努力だけではどうにもならない「格差」や「不公平」が存在する階級社会の現実を示す言葉でもある。実際に、韓国の20~30代の若者の8割は階級の上昇が難しいと考えているという。

階級が固定化しそこから抜け出ることが困難な状況の中で、「医学部入学」は階級上昇の数少ないチャンスの一つと言える。

政府が医学部の定員増を打ち出すと、他学部からの転入をめざす学生や就職しながら再受験をめざす志願者が急増し、医学部塾に殺到した。医師になりたいという純粋な動機より、自身の「階級アップ」を図る手段として医師になろうとする人が多いのではないかと感じる。

専攻医の苦悩

だが、医学部に入学・卒業し、医師になった後にも苦悩は続く。開業医と専攻医、また収益性の高い診療科とそうでない科の間で待遇や報酬に大きな格差が生じているためだ。

専攻医の週平均労働時間は77.7時間と長時間労働を強いられるだけでなく、勤務と勤務の間の休息時間も10時間以上取れないなど非常に過酷な環境だ。

中でも「金を稼げない」小児科や内科、「医療事故などのリスクが高い」外科・産婦人科では医師の減少に歯止めがかからない。残された医師の負担は膨らみ、専攻医が病院を離れる要因となっている。一方、収益性の高い皮膚科や眼科、美容整形外科には医師が集中する。

単に医学部の定員を増やすだけでは、こうした必須医療分野の医師不足が解決できるとは言えないのも事実だ。

専攻医の労働環境は非常に過酷だという(画像は資料)
専攻医の労働環境は非常に過酷だという(画像は資料)

集団辞職という医師らの極端な行為は批判を免れないにせよ、専攻医の労働環境や診療報酬の改善に真摯に目を向け、その根本的な解決を図る努力も必要だ。同時に、医学を志す若者が、志望動機を「高収入」や「社会的地位の高さ」だけでなく、医師としての使命感や価値観、職業倫理にもとづいて問い直す機会を与えることも必要だろう。

医師を社会的にどう位置づけ、患者と医師の関係をどう再構築していくのか、今回の医学部の定員増問題はその試金石と言えそうだ。
(フジテレビ客員解説委員、甲南女子大学准教授 鴨下ひろみ)

鴨下ひろみ
鴨下ひろみ

「小さな声に耳を傾ける」 大きな声にかき消されがちな「小さな声」の中から、等身大の現実を少しでも伝えられたらと考えています。見方を変えたら世界も変わる、そのきっかけになれたら嬉しいです。
フジテレビ客員解説委員。甲南女子大学准教授。香港、ソウル、北京で長年にわたり取材。北朝鮮取材は10回超。顔は似ていても考え方は全く違う東アジアから、日本を見つめ直す日々です。大学では中国・朝鮮半島情勢やメディア事情などの講義に加え、「韓流」についても研究中です。