昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”を、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る!
巧みなバットコントロールで打球を広角に打ち分け2度の首位打者に輝いた巨人の篠塚和典氏。19年の現役生活で放った安打は1696本。芸術的なバッティングと華麗な守備でファンを魅了した“打撃の職人”に德光和夫が切り込んだ。
【中編からの続き】
長嶋監督退任に「自分も辞めます」
伊東キャンプ翌年の昭和55年、篠塚氏はセカンドのレギュラーに定着。この年、ジャイアンツは3位に終わり、長嶋監督は成績不振の責任を取る形で退任を余儀なくされた。
篠塚:
伊東キャンプの成果もちょっと出てきて、「よし、来年から」って思ってるときに、ミスターが退任してしまった。長嶋監督がいるうちに結果を出せなかった。それがつらかったですね。
徳光:
そのとき、どういう気持ちだったんですか。
篠塚:
僕も辞めようと思いましたよ。ミスターに電話入れちゃいましたもん。
徳光:
だってまだ20歳ちょっとでしょ。

篠塚:
23のとき。長嶋さんと電話してて、「ミスター、僕、もう辞めますよ」って、出ちゃったんですよ。「ばかなこと言ってんな」って言われました。「伊東キャンプをやった連中が、これから監督が代わっても10年、15年と支えていくんだから、頑張れよ」。そういうふうに言われて、「よしっ」ってなったんです。
黄金ルーキー・原辰徳氏の入団
昭和55年、長嶋監督退任後に巨人の監督に就任したのは藤田元司氏。この年限りで現役を引退した王貞治氏は助監督に。藤田氏は初仕事となったドラフト会議で黄金ルーキー・東海大学の原辰徳氏を4球団競合の末、引き当てる。

篠塚:
原が入ってきたっていうのは、俺たちの中では明るい材料だったんですよ。王さん、長嶋さんっていう看板がいなくなって、僕らも心配でしょうがなかったですから。そういう意味では、いいメンバーが来たなっていう思いはありました。
ただ、中畑さんがサードをやってましたから、どうすんのかなとは思ってました。
徳光:
中畑さんの守備がうまくなりはじめた頃ですしね。
篠塚:
「原にセカンドは無理だろう」っていう思いでいたんですけど、報知新聞に「今年は原をセカンドで使う」って出たんですよ。結局、自分を外すっていう方向になってしまって。

篠塚:
そんなとき、長嶋さんから電話をもらったんですよ。「腐るなよ。チャンスは来るから、それに備えろ」って。そして、「必ず試合を頭に置いて練習しろ。打者が足の速いやつなのか、普通なのか、遅いのか。それによるプレーを意識しながらやっとけ」って。だから、ずっとそれをやってましたよ。
徳光:
そうしたら、5月に中畑さんがケガしたんですよね。
篠塚:
そうなんですよ。シーズンが始まってちょうど1カ月くらいですね。それも打ったバッターが原ですから。阪神戦で原が打ったゲッツーですよ。サードの掛布(雅之)さんが捕ってセカンドの岡田(彰布)に投げたとき、一塁ランナーだった中畑さんが二塁に滑りこんで、その上に岡田が乗っちゃって…。それで、サードに原、セカンドに僕が入ったんです。
徳光:
節目、節目に長嶋さんの言葉が生きてますね。
憧れの選手と首位打者争い
セカンドのレギュラーに復帰した篠塚氏は攻守にわたって活躍してレギュラーのポジションを確固たるものとし、ケガから復帰した中畑氏はファーストで起用された。この年、篠塚氏は中学時代からの憧れの選手だった阪神の藤田平氏と激しい首位打者争いを繰り広げた。先にシーズンを終えた篠塚氏の打率は3割5分6厘7毛。最終戦で規定打席に到達した藤田氏が打率3割5分7厘7毛と、僅か1厘差で初の首位打者に輝いた。
徳光:
これが本当にドラマチックだよね。あのときの気持ちはどうでした。
篠塚:
僕は、藤田さんはそれまでに首位打者を取ってると思ってたんですよ。
徳光:
そうなんだ。
篠塚:
生意気ですけど、僕は藤田さんに首位打者を取ってほしいと思ったんです。僕はまだ若いし、2~3回は取れるだろうっていう気持ちがあった。その思いが通じて、藤田さんが取ってくれた。
徳光:
憧れていた人と首位打者争いをしている自分…、どんな感じだったんですかね。
篠塚:
「やっぱり藤田さんのまねをして良かったな」って思いましたね。そういうバッティングを自分もやってきたからここまで来れてる、こういうふうに首位打者を争えてるっていう思いがあったので。

篠塚:
「野手は3年間3割を打てば周りからも認められる。まずは3年間3割を打とう」と思ってました。昭和56~58年に3割打てて、それで4年目の59年、「よし、じゃあ、今年は首位打者を取ろう」と、初めて狙って入った年だったんですよ。それが運良く、その年に取っちゃった。
徳光:
すごいねぇ。
篠塚:
首位打者が取れて、僕はやっとミスターに恩返しができた。反対した人たちに、「取って間違いなかっただろ」って、できたんじゃないかなっていう思いがありましたね。
“打撃の職人” バットが届けばストライク!?
徳光:
シノさんは、「バットが届くところはストライク。つまり、自分で振れるところはストライクだ」って、おっしゃったことがありますよね。
篠塚:
ベース板よりボール1個大きく、そこがストライクゾーンだと考えてました。そこをヒットしてしまえば、バッテリーはすごく嫌だろうと。
徳光:
自分が当てられる距離にあれば…。
篠塚:
もう行きますね。例えば外角低めのボールだとバットとの距離がすごくあるじゃないですか。距離があるから、ボールが多少動いてもバットを操作できるんですよ。
ボールが近くに来たときは、内側から入っちゃうから操作できない。だから、自分の感覚の中では、なるべくバットのヘッドとの距離を取る。そのために体が回ってもヘッドを残しておいて、ボールが内側に入ってきたのに合わせて出していく。

徳光:
低いボールだとどうするんですか。
篠塚:
低いボールはイメージ的にはすくい上げるようにして打ちますね。上からたたくと、どうしてもボールが下に行く。
飛ばすためにボールを当てたいポイントは、バッティングフォームの中で手が一番伸びて抜けるところなんですよ。下からすくい上げるイメージで当てていくと、ちょっと前の方で当たれば、ライトのほうへ行くし、真っ正面で当たればセンターのほうへ行くし、ボールがちょっと内側で当たれば、レフトのほうに行く。
徳光:
なるほど。
伊藤智仁氏から放った伝説のサヨナラHR
1993年6月9日に石川県立野球場で行われた巨人対ヤクルト、ここでヤクルトのドラフト1位ルーキー・伊藤智仁氏が素晴らしいピッチングを見せた。決め球の高速スライダーで巨人打線を翻弄、9回途中までに16個の三振を奪いセ・リーグ最多奪三振記録に並んでいた。新記録への期待が高まる中で飛び出したのが篠塚氏のサヨナラホームラン。プロ野球史に残る名場面だ。

徳光:
シノさんと言えば、伊藤智仁さんから打ったサヨナラホームラン。あれは、最初から1球目を狙おうと思ってたんですか。
篠塚:
いや、あれは反応ですよ。僕は最初、彼のスライダーがどんなものか見たかったんですよ。そういうイメージで入ったんで、振っていこうとは思っていなかったんです。スライダーが来たら打たないつもりで、タイミングを取ってたら、真っすぐが来たから、自然とバットが出たという感じです。「これがバッティングだな」と思いましたよ。
徳光:
そうなんですか。狙って打ったとしか思えませんでした。というのは、バッターボックスを2回も外してたじゃないですか。あれには意味があったんですか。
篠塚:
伊藤投手がちょっと投げ急いでて、「早く勝負したいんだな」と思ったから。でも、こっちには自分のルーティンがあるから自分のルーティンで行こうと。2回外して3回目は何もしないで、「はい、いらっしゃいよ」といったときに、スーッと投げてきたやつに自然とバットが出ちゃったんですよ。
徳光:
へぇ。よく自然体で出ましたね。
篠塚:
若いピッチャーと、自分のベテランとしての掛け引きじゃないですけど…。やっぱりストライクを取りたいっていうのがあったと思うんですよね。
引退の年に初めて長嶋監督を胴上げ

長嶋氏が監督に復帰して2年目の1994年に、篠塚氏は19年の現役生活にピリオドを打った。同率首位のチーム同士が最終戦直接対決で雌雄を決した伝説の「10.8決戦」で、巨人が中日を破ってリーグ制覇を成し遂げた年だ。巨人は日本シリーズでも西武を4勝2敗で退け日本一の栄冠を勝ち取った。長嶋氏にとっては監督として初めての日本一だった。
徳光:
なんであの年に引退を決断されたんですか。
篠塚:
夏前に、すごく調子が悪くなったときがあったんですよ。そのとき、僕が特打してるのをミスターが見に来たんです。いつもだったらミスターは来ないんですよ。僕は現役の中でも上のほうだし、そういうことをやらしちゃいけない。「こういう心配をかけさせてるようじゃ、もうあれだな」って自分の中で思ってたんです。
そんな中、日本シリーズの前にミスターとちょっと話をして、「シノ、来年はどうするんだ?」って聞いてくるから、「できればもう1年。20年は一つの目標にしてたし、辞めるときは、『今年で辞めます』って言ってから引退って考えてるんですけど」って答えたら、「そうか、分かった」。でも、そういう話を持ってくるってことは、「もう引退しろよ」ってこと。
徳光:
そういうことなんですかね。

篠塚:
そういうふうに自分は感じたし、いろいろと球団の考えもあるし、後釜も育てなきゃいけない。で、最終戦で優勝する日の朝に、またミスターと話をして、もう何も聞かないで、「分かりました」って言いました。
徳光:
そういう阿吽の呼吸みたいなものあるわけですね、はっきり言わずに、黙して語らずみたいな。
篠塚:
そうですね。
徳光:
でも、長嶋監督が日本一になったときにユニフォームを脱ぐことができた。それはうれしいですよね。
篠塚:
そうなんです。長嶋監督を胴上げすることが一つの目標だったのに、それができてなかったっていうのがあったんでね。それはもう最高でしたよ。
徳光:
プロ野球に導いてくれた人が日本一になったときですもんね。
篠塚:
20年なんて俺のわがままだと思いましたよ(笑)。
(BSフジ「プロ野球レジェン堂」 24/7/9より)
「プロ野球レジェン堂」
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